次郎坊伝 00 次郎坊の生きた世界

文聞亭笑一

NHK大河ドラマ:真田丸が終わってホッと一息、戦国の世から別の時代に移るかと思いきや、またしても戦国乱世が舞台の「女城主・井伊直虎」が始まります。追っかけ解説の立場としては、真田丸の延長線上ですから頭の切り替えは最小限にとどまりますが、最大の難点は・・・物語の舞台である三河、遠江に土地勘がないことです。仕事柄、日本全国を出張して歩き、仕事の合間にそれぞれの風土、文化、人情に触れてきましたが、なぜか…この辺りは空白地帯なのです。旅は好きですから全国通津浦裏を回りましたが、これまた・・・この辺りは足が向いておりませんでした。

「いつでもいける」こういう気楽さが、却って行く機会を失わせているのでしょう。今年のシリーズを機会に見聞を広げてみたいと思っています。

さて、タイトルですが「次郎坊伝」として見ました。「次郎長伝」となれば、同じ静岡県でも清水界隈が中心になりますが、静岡県というのはウナギの寝床のような、太平洋に沿った長い沿岸の地域です。

旧国名でいえば遠江、駿河、伊豆の三国を包含し、南は太平洋、北は南アルプスの高山が連なります。山賊と海賊が同居するような地形ですね。こういう自然環境の県(旧国)は日本中に数多く、太平洋側では茨城県、和歌山県、高知県、宮崎県などが似ているのではないでしょうか。とりわけ、高知県などが、地形的に似ているように見えます。自然は似ていますが、高知県は文化の行き止まり…というか、流れてきた文化の伝達相手がいません。一方、静岡県は東西文化の通路である東海道の大幹線が通ります。政治勢力も東西が入れ替わり、その都度戦乱の地でもありました。

源平時代では、石橋山の合戦(伊豆)に始まり、富士川の戦で源平の優劣が決まっています。

鎌倉政権を倒した建武の中興や足利幕府も、この地を行き来して戦っています。

戦国期は今川義元の本拠になりますが、桶狭間の合戦で信長の台頭をもたらし、三方が原の戦、長篠の戦など東西勢力の覇権争奪の舞台ともなりました。文化交流の大動脈ということは・・・勢力争いの舞台ということでもあります。孫子の兵法・地形篇や九地篇でいうところの「交地」に当たります。

つまり、敵からも味方からも侵攻しやすい地域で、占領しても維持しにくい土地柄でもあります。こういう所で戦うには、味方の連携こそ重要で、情報網を密にし、敵に分断されないようにしなさい・・・と、孫子は教えます。

この教えに反して、大軍を擁しながら敗北したのが今川義元でした。3万対3千の差に油断して、前後の連携もなく狭い土地に本陣を停め、昼飯に宴会などをしていたからです。ちなみに桶狭間は、孫子の定義で「囲地」といい、小部隊に奇襲されやすい地形を言います。「囲地は奇襲を受けやすいから、速やかに通過せよ」というが孫子の兵法です。教養人である今川義元がそれを知らなかったはずはないのですが、大軍の奢りでしょうね。信玄などは決してこういう土地には立ち止まっていません。むしろ、進軍を停めたように見せかけて、家康を誘いだした三方が原の戦のような逆手を使っています。こういう作戦を提案したのが真田昌幸(当時の名は武藤喜兵衛)でした。

余談になりますが、孫子は地形を6分類し、さらに人情を含めた土地の性格を9種類に分けて、それぞれについての戦い方を示しています。戦国時代の戦を当てはめてみると、その殆どが孫子の言う通りの結果になっています。地理と歴史、切り離しては語れません。学校教育でこの両者を切り離して教えるのはいかがなものか…と、疑問を感じていました。更に、世界史と日本史を切り離すのも妙なもので、ようやく高校の歴史授業が統合される方向で指針が出たようです、先ずは良かったと思います。

井伊谷(いいがや・いいのや)

今回のドラマの舞台というか、まず話の始まりは浜名湖の北側一帯、井伊谷から始まるでしょう。

この辺りの土地の歴史は古く、浜名湖の恵みを受けて、人が住み始めたのは縄文期からではないでしょうか。同時連載中の「橘の記」は、奈良朝の草創期を舞台にしていますが、その頃は既にヤマトの文化が伝わり、かなり発展していたと思われます。西隣の尾張は、神話に出てくる長脛彦の系統ではないかと言われ、海部などと云う一族や、物部一族などの根拠地ではなかったかとも言われます。日本武尊の妻・ミヤズ媛を祀る熱田神宮辺りが長脛彦の本拠地です。橘樹の武麻呂もヤマトからの帰路はここ、井伊谷に立ち寄ろうと考えています。

古代史の中で「近江」というのは琵琶湖のことです。「遠江」とは浜名湖のことです。この二つの湖は国の名になるほど重要な水運の拠点だったことを覗わせます。古代の物流網、交通網は、その殆どが水運ですからねぇ。牛馬などの家畜も少なく、車輪もない時代には、船ほど早くて便利な交通手段はありません。船の道を握るものが天下を握ったのです。

井伊家の祖先は、どこから来たのか・・・定かな記録はありませんが、有史以前からこの地に住処を構えていた一族ではなかったかと想定されます。この一族は信濃の山中から流れ下る天竜川の暴れ川を避け、さらに、中規模河川の都田川も避け、水量が安定している神宮寺川と井伊谷川の扇状地に居を構えています。これは、古代から中世にかけて土木技術が発達していないため、大河、中規模河川の治水ができず、小河川の自然の傾斜を利用した棚田で米作が行われてきた歴史に由来します。さらにこの地域は地下水脈の影響で、天竜川や都田川の伏流水も湧き出る土地柄のようで、水利には最適の場所だったようです。「井伊」という家名にしても、井戸の「井」をとった物です。保元の乱に活躍した武士に「井の八郎」という武士の名があります。鎌倉幕府に出仕した人に「井之介」という人物がいます。「井」の「介」・・・つまり、井の里を治める次官という意味です。ただ、「井」の一文字だけでは読みにくい、呼びにくいので「い」を重ねて「井伊」と名乗ったようです。枝分かれした中には「伊井」とした系統もあるようです。

井伊家文書には「先祖は藤原氏である」と書かれています。それを信じれば、藤原良門を祖とし、井伊家開祖とされる共保まで6代、共保から見て次郎坊・井伊直虎は24代目に当たります。平安期の荘園の管理人が、鎌倉幕府の地頭となって営々とこの地に住み着いてきた・・・ということでしょう。

ただ、藤原一門であれば「家紋は藤」が多いのですが、井伊家の家紋は「丸に橘」です。このいきさつは良く分かりません。そう言えば文聞亭の家紋も「丸に橘」、家名と家紋・・・不勉強でよく分かりません。

それにしても浜名湖…随分と複雑な形をしていますねぇ。今回、物語の舞台になるというのでしみじみと地図を眺めましたが、旧来のイメージが大間違いであったことに気づかされました。新幹線の鉄橋から眺める限り、琵琶湖や諏訪湖と同じだろうと思っていました。ところが、大きな半島が付き出ていて、二つに分かれていますね。「浜名湖=ウナギ=うなぎパイ」「オートバイ、楽器のメッカ」・・・程度の予備知識では物語について行けませんねぇ。

さらに、浜名湖は海と繋がった汽水湖です。淡水湖ではありません。古代から湖から離れた場所で米作が始まったのもそのためでしょう。農村、田圃のイメージは古代から戦国ころまでは「傾斜地に整備された棚田」と思わないといけません。平野部に大規模な田園地帯が整備されるのは、江戸幕府開設以後のことです。政府や領主による新田開発が進むまで、現在の平野部は草原であったと見た方が良さそうです。

ただ、浜名湖の場合は、1498年の大地震による津波で砂州が決壊して海と繋がってしまったとも言われます。だとすれば、それまでは古文書の通り「遠淡海」だったかもしれません。

井伊家・家譜

近江・彦根32万石、幕末の井伊大老・直弼に繋がる家譜があります。今回のドラマは、どこから始まってどこまで行くか見当がつきませんが、参考までに転記しておきます。

これを見ると「直」の字が代々続いています。幕末の直弼もそれを引き継いでいますね。 この物語に登場しそうな部分だけを、より詳細に系図化してみます

今年もまた、狸親父・家康が出てきます。築山殿と呼ばれることになる瀬奈姫(鶴姫)は家康の最初の妻です。次郎坊や直親とは歳も近く、伯母さんといった血のつながりがあります。こんなところも井伊家が幕府の重鎮として大老職に就いた由縁があるかもしれません。

関口親永は今川一門です。今川義元の叔父に当たります。

この今川と井伊・・・南北朝ころからの因縁のライバルでした。井伊家は北畠親房、楠正成などと共に、南朝方・後醍醐天皇を支えます。一方の今川家は足利尊氏の室町幕府・北朝方で足利将軍家に繋がります。足利家では本家の次が吉良家、次が今川という継承順位で、今川は将軍継承資格を持った高家なのです。ですから、井伊家が今川から敵視され、虐めに遭うのは当然とも言えます。

ついでですから足利幕府、室町幕府の政治形態に触れておきます。この政治形態は鎌倉幕府や徳川幕府とは違い、地方分権をしていました。関東には関東公方を置き、関東以北(フォッサマグナより東・50Hz圏)はすべて関東公方、関東管領にお任せとし、西日本を中心に政治をしていた幕府です。統一国家のように見えて、そうでもない政治構造ですね。それが戦国乱世を呼んだのかもしれません。

忠臣蔵の敵役、吉良上野介の吉良家は、室町幕府の時代は権力者の地位にありました。偉いんです(笑)だから、赤穂の浅野などと云う、成り上がり大名をバカにしたのです。