はじめに 00

文聞亭笑一

「西郷どん」が終わって、次は戦国時代かと思いきや、はるかに時代が下がって明治から昭和が舞台になりました。しかも、政治経済という歴史の本道ではなく、スポーツ史の世界です。

その方面に関しては殆ど知識も見識もなく「来年は休暇、休業」と筆を休める心算でおりました。

ところが・・・「西郷どん」の最終回に読者の皆さんからレスがたくさん来て、「来年もよろしく」「楽しみにしています」などと書かれると・・・やめるわけにいかなくなりました。とは言え・・・

空っぽの頭の中からいかにして文案を捻りだせばいいのか、そう言う芸当は持ち合わせていません。こうなれば、ネット、図書館、本屋の立ち読みなどで即席の知識を仕入れ、文章にするしかありませんね。文聞亭笑一の由来は「聞きかじりの浅学を文にしてぇ、お笑いを一席」ですから、まさに名前通りのことをすることにします。

モデルになった金栗四三さんやその業績についても、これからテレビの進行と共に勉強していきますが、日本におけるスポーツ史、教育史のようなことを「考えてみよう」と題名を「韋駄天考」として見ました。囲碁や将棋の世界では「下手の考え休むに似たり」・・・とも言います。

皆さまは岡目八目で、笑って読み捨ててください。

韋駄天

韋駄天・元来はヒンズーに由来する神様のようですが、お釈迦様の修行や布教を支えた四天王の副神の一人として仏教寺院などに祀られています。日本に入ってきたのは古く、聖徳太子が建立したという四天王寺などで、曼荼羅(まんだら)に描かれていた32神の一つですが、それほど注目されてはいません。

韋駄天が仏像の形をしてこの国に登場したのは、鎌倉期の禅宗の到来の頃です。禅宗と言えば栄西の臨済宗、道元の曹洞宗が有名ですが、黄檗(おおばく)宗という一派もあります。この宗派を持ち込んだのが明人の僧侶である隠元禅師です。隠元さん・・・どこかで聞いたことがありませんか? そうです「インゲン豆」を初めて日本に持ち込んだのはこの人です。

黄檗宗の本拠地は京都の南、宇治の萬福寺です。ここに韋駄天像があります。鎧を着て、ちょっと…強面(こわもて)で立っています。

四天王寺とインゲン豆が出てきたので大脱線をやります。(笑)

<余談>野沢菜漬けの起源

信州の名物に野沢菜があります。11月から12月中旬までが収穫と、漬け込みの最盛期で、農家の女衆は冷たい川の瀬で菜を洗い、それぞれの家に伝わる伝統技法で漬け込んで行きます。皆さんもスキーの民宿などで口にされたことがあると思いますが、市販の味とは大違いの歯触りの良さで人気食品の一つですね。これを都会に持ち帰ると、なぜかガックリと味が落ちてしまいます。不思議ですが、考えられるのは温度差だけですね。

それはさておき、この野沢菜・・・実は失敗作だったのです。

鎌倉期に信州・野沢の寺から四天王寺に修行に来ていた坊さんがいました。その頃、中国から大阪に入ってきた蕪(かぶ・・・天王寺蕪)のおいしさに惚れて、「このおいしさを田舎の檀家の者にも味合わせてやろう」と種を求めて帰りました。

種をまきます。芽が出て、順調に伸びて…土地と水と気候が合ったのか、大阪で見た以上に葉が茂りました。

「さぞかし大きな蕪ができているに違いない」

坊さんは期待に胸を膨らませて収穫してみます。・・・が、なんと、貧弱な蕪しかついていません。「それでも味は…」と齧ってみると四天王寺蕪とは比較になりません。不味い!

ガッカリしているところに檀家のお婆さんが通りかかり、

「おやおや立派な菜っ葉だこと。坊様やぁ、それをわしにくれんか」といいます。

「ああ、どうせ捨てるもんだで、好きなだけ持っていけ」

一月ほどして、くだんの婆さんがどんぶりを手に寺を訪れました。

「坊様や、うまい具合に漬かっただんね。味見してみるってもんずら」

どんぶりには何かの茎、山の蕗のようなものが刻まれています。口にしてみると「美味い!」

「婆様や、こりゃぁ…何を漬けただや?」

「何をって…、ほれ、坊様が捨てた菜っ葉ずら」

日本最古のスポーツ 「相撲」

スポーツ史がテーマの大河ですから、日本における最古のスポーツから振り返るのが礼儀であろうと、神話の世代に戻ります。この国で最初に行われたスポーツが相撲だということは殆どの皆さんがご存知です。相撲を国技といい、相撲桟敷に「国技館」などと命名するのもその流れです。由来は古事記、日本書紀に語られる「神話」ですから、証拠とするには根拠が薄いですが、かと言って、全くの創作でもないでしょう。

11代 垂仁天皇の時代・・・と云いますから西暦でいえば300年ころでしょうか。

奈良の葛城に當間蹴早(たいまのけはや)という大男がいて、奈良界隈では「俺が一番強い」と豪語していました。これを聞いた天皇は「ほかに強い者はいないのか」と臣下に尋ねます。すると「出雲に野見宿祢(のみのすくね)という男がおります」というので呼び寄せて試合をさせることにしました。これが最初の天覧相撲で、日本における「競技」の最初だと言われています。

この当時の相撲は、どちらかと言えばプロレスですね、何でもあり(笑)

組み合うのは勿論ですが殴る、蹴る、の空手的技もあります。蹴早(けはや)という名前からして、空手のマワシゲリなどを想像してしまいます。

この勝負、野見の宿祢が勝ち、宿祢は褒美に河内の国を賜ったとあります。この伝説、裏を返せば天皇が力自慢で高慢な軍司令官(蹴早)を嫌って、軍の長官の首を挿げ替えたとも読めます。宿祢はその後、天皇側近として仕え、天皇など貴人を葬る際に行っていた「殉死」の悪習をやめ代わりにヒトガタ(人形・・・埴輪)を埋める方式を提案し、そうさせたという功績を残します。

宿祢が土師氏の祖先と言われるのも、その故事に由来します。土をこねて造形するという技術は縄文時代からありました。そういう点からすると野見宿祢は渡来系の人物ではなく、縄文人の末裔かもしれません。また行事の司・公家の五条家は宿祢の末裔と言われます。

こんな調子で、金栗さん、マラソンとは関係ない話を含めて、都度、都度の「おもいつき」を綴っていこうと思います。読み捨ててください。