乱に咲く花 01 夢追い人

文聞亭笑一

新年早々、1月4日からNHK大河ドラマ「花燃ゆ」が始まります。

皆様にとっては暮の忙しい時期になるかと思いますが、「予告編的周辺情報」を旨とする爺通信の週刊誌?としては「一回パス」するわけにもいきません。お邪魔虫を承知の上で、配信します。正月の屠蘇(とそ)を酌みながら、斜め読みしていただければ幸甚です。

今回のドラマでは、吉田松陰の妹・文が主人公ですが、前半は吉田松陰が主役というか、彼の30年の軌跡を追いながら維新前夜の尊皇攘夷の嵐が描かれるのではないでしょうか。中盤から文の最初の夫・久坂玄瑞をはじめとする松蔭の門下生たちの活躍の場面になり、蛤御門の変、戊辰戦争へと突っ走る動乱の時代が描かれるでしょう。そして群馬県令として教育改革に邁進する夫と共に、兄のやり残した人材育成を続けていくのが主役・文の活躍場面になるでしょう。

こう読むと…一年前の「八重の桜」の二番煎じというか、立場を変えただけにも見えますが、兄が育てた生徒たちが日本の中核となって「明治」という時代を作り上げていきますから、近世から現代に繋がる日本の姿をおさらいするには、丁度良い教材になるかもしれません。

吉田松陰…維新の偉人として名前は良く知られています。が、歴史書や歴史小説においては、あくまでも維新の前座として扱われ、くわしい生涯については、今回改めて読み直したというのが正直なところです。そんな中で、松蔭語録というか、幾つかの残された言葉の切れ端を見つけました。そういうものを紹介しながら、この稿を続けてみたいと思っています。

松蔭は当時の常識人から「狂人」と呼ばれましたが、精神異常者ではありません。常識はずれ、型破りという意味で、その好奇心の泉は尽きることがありませんでした。中庸を重んずるこの国の文化風土からすれば、振り子が振り切れて・・・一周してしまうほどに見えたでしょうね。

その典型的な…というか、当時の型破りで、現代人には当たり前の一節があります。

夢なき者に 理想なし

理想なき者に 計画なし

計画なき者に 実行なし

実行なき者に 成功なし

故に 夢なき者に 成功なし

読みながら、高校時代の数学の証明問題を思い出しました。証明の解を読む気がしますね(笑)

実に明快です。科学的です。デカルトかカントを読むような気もします。

夢と理想との境目がよく分かりませんが…期待、希望のレベルでモヤモヤっとした状態なのが夢でしょうか。それを形、つまり目標・課題にして行ったものが理想であろうと解釈してみます。「課題形成」「目標設定」などという言葉が、現代ビジネスの世界ではよく使われますが、それが松蔭の言うところの理想なのでしょう。今回のサブタイトルを「夢追い人」としてみましたが、それが、吉田松陰という人物を表す言葉として一番しっくりいくように思いました。

私は現役時代の最後に、福沢諭吉の「学問のススメ」をもじって 『はかるのススメ』という文を書いたことがあります。

「目標設定から企画、計画、そして実行、評価というプロセスをグルグルと何回も回して螺旋(らせん)状に大きな目標に近づけていこう」という趣旨の、仕事の進め方教本のようなものですが、その中で「はかる」ということの大切さを「はかる」と読む幾つかの漢字で表現したものです。

皆さんも何度か経験されたことがおありでしょうが、ワープロに「はかる」と入力すると数種類の漢字が出てきます。私のワープロでは、計る、量る、図る、測る、謀る、諮る、という6つですが、漢和辞典を引くと三十数種類の「はかる」が出てきます。

それぞれに意味が違って面白いものです。寸法を測るだけでも、精密に測る場合は「寸る」などと書きます。大雑把に測るのは「土る」「度る」などとも書きます。

諮る(相談する)ほうでも「図る」「謀る」「略る」「揆る」などとあまたの漢字が出てきて、いずれもニュアンスを異にします。

それはそれとして……吉田松陰の生き方は単純明快、実に爽快ですねぇ。「我思う、故に我行く」てな具合で真っ直ぐに自分の意思を貫きます。これが「志(こころざし)」で、尊皇攘夷の志士たちの生き様のモデルになりました。凄いですねぇ…、立派ですねぇ…、と思いつつも、いま世界を震撼させているイスラム国の連中も、アルカイダも、彼らの価値観の中では志士なのでしょう。礼賛してばかりはいられません。

【杉家の家系図】

杉 七兵衛         ―――百合之助(父)   - 民治 (梅太郎)

(祖父)                お滝(母)       - 寅次郎(松次郎・松蔭)

                                  - ? 男

                ―――(吉田)大助     - 千代

                                  - お芳

                ―――(玉木)文之進    - ? 女

                                  - 文

分かっている範囲で、系図風にまとめると、こうなりますが(?)が…埋まっておりません。

まぁ、そのうち分かった時点で埋めましょう。

松蔭・寅次郎が5歳の時、叔父の吉田大助が急死します。吉田大助は杉家から山鹿流軍学指南の吉田家に入ったのですが、若くして亡くなってしまいました。跡継ぎがいません。藩としては家学である山鹿流指南の家を潰すわけにはいきません。急遽、養子として、わずか5歳の寅次郎が家を相続することになりました。家だけならまだしも、指南役まで相続することになりました。これが大変です。5歳にして藩主に軍学を講義する先生をやる立場になってしまったのです。

封建制度と言うものは、こういう場合にまことに不便で、5歳の幼児にも山鹿流軍学教授の立場を与えなくてはならないのです。まぁ、平和な時代ですから黒田官兵衛のような軍師は必要としませんでしたね。しかし、寅次郎は軍学、兵学の教師にならなくてはならぬわけで、なまじっかな勉強スピードでは藩の要求に間に合いません。

先代・吉田大助の高弟たちは、藩命を受けて寅次郎の促成栽培に精を出しますが、いくらなんでも5歳の子供には無理です。それでも寄って、たかって山鹿素行が書いた軍学書を読ませます。

松蔭にとって幸か不幸か、父の末弟である玉木文之進が高弟の一人で、杉家の近くで私塾を開いていました。藩校へ入学するための予備校といおうか…学習塾のようなものです。これが最初の松下村塾です。松蔭は流罪になってから、休止していたこの学校を再開し、幾多の英傑を育て上げたのです。

テレビではどう描くかわかりませんが、叔父の玉木文之進という先生は、物凄いスパルタ教師で生徒たちは戦々恐々でした。

「玉木先生が来るよ」と言えば、大泣きしていた子供がぴたりと泣き止むというのですから、相当なものだったでしょうね。とりわけ甥の寅次郎に対しては厳しく、殴る蹴るは日常茶飯事、崖から突き落とされることもあったと言いますから、児童虐待、暴力教師ですよね(笑)

ただ、寅次郎にとっての救いは、母親の滝が実に楽天的で、ユーモアにあふれた人のようで、家に帰ればホッとできる居場所があったことでしょう。このお滝さんは杉家よりももっと身分の低い足軽の家の出ですが、学問が大好きで、学問のある家に嫁ぎたくて杉家に来たと言われる人だったようですから、教育の壺は心得ていたようです。物心つくころから論語の基礎を叩きこんでくれた父の百合之助、それに温かく見守ってくれる母のお滝の取り合わせですから、家庭環境としては実に恵まれていたといえます。

この、お滝さんには有名なエピソードがあります。

兄の民治が足に大きなあかぎれを作り、湯に入ったものの傷口の痛さに耐えかねて廊下を抜き足、差し足で歩くのを見つけて

あかぎれは 恋しき人の形見かな ふみ見るたびにあいたくもある

とからかっています。「ふみ」は、文(恋文)と踏み…を掛けています。「あいたく」は、逢いたいとアイタ!(痛い)を掛けています。

即興でこういう狂歌が読めるというのは、なかなかの教養人ですねぇ。

松蔭は後年、父母に対する感謝の意を川柳に残しています。

親思う 心に勝る 親心

子が親に、どんなに感謝をしても、親が子を思う気持ちに勝てるものではない…と述懐しています。お滝さんは80歳を超えるまで存命しましたが、孫たちには松蔭が罪人である間から終生「寅叔父さんのようになりなさい」と口癖のように言い続けたそうです。

「親の心子知らず」などとも言われますが、「父の恩は山よりも高く、母の恩は谷よりも深し」なのでしょう。

お互いに、亡くなりて 初めてわかる 親の恩 などという年齢になりました。

子供に、孫に、出来る限りの愛情を注いでやりたいのですが、一歩引いて、冷静に、科学の目で子や孫を観察することも大事ですね。盲愛してしまうとオレオレ詐欺の餌食になるご時世です。

まぁ、電話やメールだけで大金を動かすということが理解できませんが、劇場型で仕組まれてしまったら「絶対にやられない」という保証はありません。

と言って、心配していても仕方がありませんね。

心配(しんぱい)などするな。 心配り(こころくばり)をせよ。

同じ漢字を使っても、読み方を変えれば人生訓になります。

来年は未年です。羊は群れて行動します。狼に襲われたら、子羊を真ん中にして、その周りに雌羊、外周には雄羊が並んで、輪になって狼の群れと対決します。人間の群れも、そうありたいですね。

しかし、「男らしく」「女らしく」と言えばセクハラになるとか…。なんか変ですねぇ。