乱に咲く花 03 やむにやまれぬ大和魂

文聞亭笑一

今年の大河ドラマは、演出の責任者が「幕末、維新時代のホームドラマ」と公言していますから、まさにその通りの展開で、歴史的事実や教訓を追いかけたい文聞亭には、実にまごつくことばかりです。

ただ、面白いのは、ここまでの所を見ていると寅次郎・吉田松陰がどうしてもフーテンの寅さん・車寅次郎に重なってしまうことです。文はさしずめ寅さんの妹・さくら、父母が団子屋のオイチャン、オバチャンでしょうか(笑)

松陰は脱藩してまで実行した東北旅行の後も、中仙道を通って江戸に出て、江戸に着いてからも腰が落ち着かず、「海防探査」と称して三浦から湘南に出かけ、更には「ロシア船に乗ってヨーロッパを目指す」と長崎にまで足を伸ばしています。立場的には執行猶予の付いた犯罪者で、保護観察を受けている身なのですが…なんともはや、自由奔放です。

長州藩の政治には二つの流れがある。

幕末の長州藩は他の大名家と同様に膨大な借財に苦しんでいた。これを改革したのが 村田清風である。この人はいわゆる急進改革論者で、従来の既得権をすべて廃止し、倹約はもとより殖産興業に重点を置き、借金の踏み倒しを含めて数年で藩財政を立て直した。

ただ、この改革は急に過ぎたため、当然反対派が出る。多くの恨みを買って清風は失脚し、保守派が政権を執るのだが、これがまた挫折して改革派が取って代わるということを、数年ごとに繰り返していた。

なんとなく欧米型の二大政党政治のようですが、選挙で選ぶというのではなく、家老たち重役のさじ加減で、財政が苦しくなれば改革派(正義党)に任せ、安定すると保守派(俗論党)が取って代わるというご都合主義の結果でした。

松陰が脱藩事件を起こした時は、たまたま俗論党が政権を執っていましたから、処分が厳しい方に出ましたね。吉田家は取潰し、松陰は実家預かりになります。命までも取られなかったのは、既に国許の萩では正義党の周布政之助が復活しつつあり、保守派の椋梨藤太の影響が薄らいでいたためだったようです。

さて、実家預かりになった松陰ですが、侍の身分は停止されたものの「向こう10年修行をせよ」との内意が出ます。これは、松蔭を浪人させてしまうと、毛利家の家学である山鹿流兵学まで廃止するということになってしまうからで、藩士が兵学を学ぶことができなくなります。これでは困るので、タテマエ禁止、ホンネは奨励という変な判決をします。

司馬遼の説によれば

タテマエということには説明が要る。江戸体制は西洋風の法治国家ではないから、法は極めて不備である。それを、運用を上手くやることによって、世の中が維持されていた。

となります。

建前としては厳罰に処す、が、それでは藩が困るから「嘆願」があれば許すというやり方です。父百合之助からの嘆願で、松陰は自由を得ました。また江戸へと向かいます。

この本音と建前の使い分け、実に日本的曖昧さで、日本人社会には実に便利に機能しますが、相手が外国人、とりわけ西欧文化との相性が良くありません。

これを混同したのが、かの「河野談話」や「村山談話」で、日本外交の汚点の一つですし、日本企業も海外との契約交渉で、あまたの失敗を繰り返してきました。現代でも日本文化の一つ「和の精神」として残りますが、実に難しい所です。ただ、外国相手には決して通用しないと覚悟しておかなくてはなりませんね。

松陰の二度目の江戸行は自由奔放な一人旅です。前回は藩主の大名行列の先触れとして東海道を型どおりに進みましたが、今度は風の向くまま、気の向くまま・・・思いのままです。

先ずは大阪から大和に向かいました。そこから伊勢に出て、更に中山道に道を取ります。松陰の一つの哲学として

地を離れて人なく、人を離れて事なし。故に人事を論ぜむと欲すれば、先ず地理を見よ

があります。「人は環境に左右されやすい。であるから、その地勢を見れば、そこに住む人間集団の考え方の傾向が分かる」というものですが、同感しますねぇ。土地柄などとも言いますが、人間は育った環境、住む環境で思考傾向に違いが出ます。山に囲まれた環境で育った者と、大海原と向き合って育った者では論理の組み立て方が異なって当然のように思います。私の生まれたところは「理屈っぽい」として有名ですが(笑)要するに天地が狭いのです。狭い環境にあっては微分化傾向が出て、細かい所まで突き詰めて論じる傾向が出ます。どちらかと言えば科学者、技術者が育つ環境でしょうか。

再び江戸に出た松陰は、第一回目の塾漁りのような学習スタイルを改めて、佐久間象山のもとに入り浸ります。日本国の危機を救うには古来の学問では通用しない、世界に目を向けねばならぬ…と考えた結論です。

黒船到来の第一報は、幕府から諸藩に正式に通達があったわけではない。諸藩 夫々が手を尽くしてその変報を得た。長州藩の場合は、噂を聞くと共に霊南坂にある川越藩の藩邸に使いを走らせてこれを確認したのである。川越藩はたまたま浦賀警備を受け持っていたため、早く知った。

大事件です。泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(蒸気船)たった四杯で 夜も眠れずという落首が有名ですが、当時の日本人にとっては天と地がひっくり返るような大事件でした。

・・・というのも、欧米列強が清国に対し理不尽な要求を突き付け、なおかつ、アヘンなどという毒物を持ち込んで清国を揺さぶっているという話は、当時の下町の長屋の住民まで知っている話でした。「海賊が攻めてくる」という危機感は日本人全体を覆っていた危機意識だったのです。それだけに…反応は極端に出ました。

海賊船を、日本人は日本人の寸法で考えていました。当時日本の最大の船は百石船です。ところが黒船はあまりにも大きい。想像を絶する…とはこのことです。「海に城が浮かんでいる」と表現していますが、船というよりは要塞ですね。舷側に並んだ大砲の数に度肝を抜かれてしまいました。

…が、実際に見た者はほんのわずかです。にもかかわらず噂はあっという間に江戸市中に広がりました。噂と言うものは誇張、膨張をしながら伝わる性質があります。最近では放射能汚染の風評被害がその典型ですが、「放射能怖い」の思いが膨らんで異常なほどに、幻の陰に怯えました。いや、過去形ではありませんね。現在進行形です。

黒船も同じです。旗艦のサスケハナで3000t程度ですから、それほど大きくはないのですが、20万tの大型タンカーほどに風評は膨らみます。ペリーの肖像画というか、瓦版に載った人相書きというのは「鬼」ですね(笑)

右の絵は壱岐凧を描いた私の駄作ですが、兜に噛みついている鬼の人相とペリーの人相書きが良く似ています(笑)


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松陰は駆けます。一目散に浦賀に向かいます。浦賀にはすでに佐久間象山が先着しています。象山門下というのは実証主義というか、科学的というか、現地・現物主義ですから噂を聞くと同時に現地に駆け付けていました。自分の目で見ない限り信用しないのです。

黒船を見た瞬間から、佐久間象山は攘夷主義から開国派に転向しています。そう言う点では哲学者というより科学者、政治家でしたね。松陰もそのタイプです。

「今回は良いとして、次回は必ず戦になる」と考えたのが松陰でした。勝つ方法を必死に考えます。それをまとめたのが「将及私言」という藩主への直訴状です。これがまぁ、その後の長州藩の黒船対策の教科書になるのですが、四か国連合艦隊の下関攻撃の前には全く役に立ちませんでした。

松陰はあくまでも攘夷ですが、象山は早々に開国派に切り替えます。観察眼の差でしょうか、数学が得意な象山と苦手な松陰の差でしょうか。象山は「今戦っては負ける」と読みましたが,松陰は哲学優先で、陸上戦なら勝てると見ました。

これはペリーの船に乗り込もうとして、失敗した後の歌ですが

かくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬ大和魂

この熱気が松下村塾を火種として燃え広がり、維新へと燃え広がっていきますが、礼賛するわけにはいきません。先日フランスの新聞社を襲撃した犯人、イスラム国なる旗を掲げて破壊工作をしている集団、いずれのテロリストたちも

かくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬ●●●●魂

ではないでしょうか。一つの理念に凝り固まってしまう集団、それが自己増殖を繰り返していく現代、実に怖いですねぇ。オームもそうでした。まさに癌細胞です。

破壊工作を是とする団体に思想、信教の自由を与えるべきや否や・・・先進国に突き付けられた最後通牒ですねぇ。ならぬものは ならぬのです(八重の桜)…と答えましょう。