次郎坊伝 01 運命の三人

文聞亭笑一

いよいよ今年の新しい大河ドラマ「女城主・井伊直虎」が始まります。タイトルが少々固いですねぇ。しかし…女城主と断らないと、男の物語と誤解されるかもしれません。「虎」ですからねぇ。強くて凶暴なイメージになります。

物語では「おとわ」という名前で登場します。作者の創作です。実は、本名も生年も記録にありません。おとわが死んだのは1582年とはっきりしていますが、何歳で死んだのかの記録がありませんから、逆算もできません。前後の事情から1536~38年ころではないかと思われます。物語の作者も子役に演技させる都合上、第一話の時点で7,8歳を想定したのではないでしょうか。現代でいえば小学校の2,3年生です。おとわを中心に亀の丞、鶴丸という二人の男の子が出てきます。

◎亀の丞はおとわのまた従兄に当たります。両者の祖父が兄弟ですね。後に井伊直親と名乗ります。

◎鶴丸は井伊家筆頭家老・小野正直の跡継ぎです。後に小野正次を名乗ります。

井伊家の立場

物語の始まる頃、天文13年(1513)における井伊家の立ち位置を理解しておきましょう。

井伊家は井伊谷に本拠を置く土豪です。領内では一応独立して経営を営みますが、近隣の大名の傘下に入らないと、その独立が脅かされ、大勢力に併呑されてしまいます。戦国時代の地方領主は皆同様な立場で、昨年の真田丸での真田家も同様でしたよね。井伊家は真田よりも規模の小さい土豪であったと思われます。石高にして1万石強です。真田の場合でもそうでしたが、家老、家臣などと言っても、江戸期の主従関係とは違います。筆頭家老の小野家にしても独立領主的な立場で、井伊谷連合のNo2という立場です。真田の例でいえば出浦昌相、室賀尚武などと同様な立場です。ですから井伊家は井伊谷連合の盟主ではありますが、家臣の生殺与奪権までは持っていません。資本提携した親会社と子会社・・・と云うのが分かりやすいかもしれません。

天文年間、近隣では大きな地殻変動が起こっていました。

東隣りの駿河では今川義元が兄を倒して家督を奪っています(花倉の乱)

そのさらに東では北条氏綱の跡を継ぎ、三代目の氏康が東に向けて勢力を伸ばしています。

北の甲斐では武田信玄が父・信虎を国外追放し、家督を握り、信濃への侵攻を開始しています。

西では、三河の松平広忠(家康の父)が織田信秀(信長の父)と戦っています。(安祥城の戦)

そのさらに西では斎藤道三が美濃を略奪し、尾張の織田勢の隙を窺っています。

この顔触れ、どれもこれも戦国大名として名を馳せた英雄ばかりです。井伊家の立場がいかに心もとないか…お分かりいただけるかと思います。

井伊家は1513年におとわの曽祖父・直平が三岳城の戦で今川軍に敗れ、今川家に従属することになりました。しかし、反今川の旗を掲げる地侍たちが多く、その後も小競り合いをしています。

とはいえ、今川義元の治世が安定し、甲斐の武田との間に甲駿同盟が締結されるに及んで、今川の遠州攻略は勢いを増します。交渉的態度から制圧姿勢が強まります。井伊家はこれに耐えきれず1539年に三岳城返還と引き換えに、娘(物語では佐名)を今川に人質に差し出します。この佐名の産んだ娘・瀬奈姫が、後の家康の正室・築山御前です。ともかく、この時代は政略結婚ばかりで頭が混乱しますね。

従って、井伊家は独立した勢力というよりは、今川家に従属する土豪の一つと言う立場になります。

今川ホールディングスの子会社で、かつ、傘下に独立性の高い孫会社を抱える企業…ですかねぇ。

井伊と小野

鶴丸(小野正次)の父・小野和泉守正直と、亀の丞(井伊直親)の父・井伊肥後守直満は、今川家への外交姿勢、協力姿勢をめぐってライバル関係にありました。小野和泉は今川への積極追従・協力を主張します。遠州から三河制圧と西に向かう今川勢力の先鋒として、井伊家、井伊谷連合を売り込もうとします。確かに、今川が三河攻略をする上で、井伊家の位置は交通の要衝を抑えます。

一方の井伊肥後は独立自尊、井伊家の伝統を守る立場に固執します。南朝・北朝に分かれた時代から、後醍醐天皇直々の遠江の盟主として、北朝方の今川の傘下に入ることを快しとしません。ちなみに和泉守、肥後守などの官名は南朝時代にもらったものです。

現実派の小野と、伝統、家名の名誉を重んじる直満・・・事あるごとに対立していました。

この対立は、当然のことながら今川家の標的になります。なにせ、今川には太原雪斎という戦国屈指の大参謀が付いています。敵方や身内も含めた揉め事を見逃すはずがありません。孫子の言う「戦わずして勝つ」という戦術を駆使してきます。小野和泉をスパイ(内間)に抱き込み、井伊の情報はすべて雪斎の手のひらの中で掌握していました。今川義元が、東海の雄として駿河、遠江、三河の太守・大大名として成長できたのは、雪斎に依る武田、今川、北条の三国同盟の成果に他なりません。この時期、おとわ、亀の丞、鶴丸などが子供の時代は、雪斎の軍師としての全盛期でもありました。

共(とも)保(やす)の井戸

井伊共保…井伊家初代とされる人には桃太郎のような伝説があります。話は平安時代にさかのぼります。井伊谷八幡宮に一人の男の子が捨てられていたと言います。可哀想に思った宮司が育てたのですが7,8歳になると常人とは離れた異才を発揮するようになりました。これを領主である藤原共資に報告し上京させると、すっかり気に入り養子にします。その上で井伊谷の地頭として地域一帯を管理させました。井伊谷に城を築き、井伊を名乗った共保が井伊家の初代です。

この井戸は「御手洗(みたらし)の井戸」と言われ、大切にされてきましたが、この物語の頃は、今川に蹂躙されて元の姿ではなかったのでしょう。ドラマの中では子供の遊び場のように扱われています。

それはそうかもしれません。今川義元は遠州の端にある井伊を警戒して目付を送り込んでいます。目付とは監査役です。その一人が新野左馬之助、おとわには母方の叔父に当たります。おとわの母は新野左馬之助の妹です。左馬之助は御前崎・新野領の領主ですが、妹の結婚を機に井伊谷に移住しています。

ここらも・・・雪斎禅師の尺(さし)金(がね)ですが、井伊家を敵に回さないようにとの、強かな配慮があります。

井伊直盛(おとわの父)

この人ほど気の毒な立場の人はいないでしょうね。こう言う立場になりたくありません(笑)

井伊家の当主です。社長です。が、隠居した祖父が会長か、相談役のような立場で隠居城にいます。

妻は今川方から政略結婚で迎えました。その兄・新野左馬之助が家臣というか、監査役で控えています。更に、筆頭家老(専務)として今川贔屓の小野和泉が政務を取り仕切ります。そして、常務格で井伊直満を筆頭に叔父たちがいます。叔父たちはいずれも独立派ですし、家臣の多数は独立志向の強い者たちばかりです。

そもそも直盛が当主になったのは、父の直宗が三河・田原城攻めの陣で戦死してしまったからです。

その前年には叔父の直元も病死しています。井伊家の男系図がピンチなのです。当主として一族をまとめなくてはならないのですが、会社を取り仕切るのは今川系、そして、株主たちはこぞって独立系ですから、株主総会(軍議)などは大荒れですね。経験の浅い直盛には裁ききれません。

おとわと亀の丞の婚約

窮余の一策・・・とでも言いましょうか、直盛は自分の娘と、直満の息子の婚約を決めます。今川に顔を立て、なおかつ独立派の大叔父には息子に家督を譲ることで協力を求めます。次期社長の指名ですね。

      ―直宗――直盛――直虎(おとわ・次郎坊)

      ―女子

        ―――築山殿    許嫁

       関口親永

徳川家康

井伊直平―――直満――――――直親――――――直政(彦根藩始祖)

             (直盛の養子)

      ―南渓

      ―直義

    ―直元

この策はしかし、今川にとっては面白くありません。雪斎禅師や今川義元が絡んでいたかどうかは分かりませんが、今川はおとわの結婚相手として、今川家の重臣の子をあてがう腹積もりでした。直盛は傀儡政権ですが、その次には直属社員を社長として送り込んで、乗っ取ってしまおうという算段でした。

このことに気づいた直盛が、せめてもの抵抗策として二人の婚約を決めたのです。

直満・直義暗殺(処刑)

おとわと亀の丞の婚約、次期政権の亀の丞譲渡は、今川にとって面白くありません。

「勝手なことをしやがって…」という感じでしょうね。それと「小野と新野は何をしていたのか」という風向きになります。小野正直、新野左馬之助に対して厳しい注文が付きます。どちらも今川に対する忠誠心を疑われる事件ですから、そのままにはしておけません。

物語では、直満が「北条に密書を送ったのが露見した」という設定ですが、直満自らが書いた密書があったとすれば、宛先は武田か織田ではなかったでしょうか。北条と井伊が提携するには、両者の間に今川がいます。井伊は北条に呼応して今川を攻めるほどの勢力ではありません。もし、直満が提携を模索したとすれば、武田でしょう。信玄の軍師・山本勘助あたりと連絡を取って不思議ではありません。甲駿同盟はしていますが、武田信玄は信濃攻略を着々と進めていて、高遠城を始め伊那、飯田地方にまで勢力を伸ばしてきています。連絡を取るにも、天竜川ルート、三州街道など道があります。それに、直満の遺児・亀の丞が後に逃げ込んだのは飯田に近い高森町の寺なのです。この方面との交流があればこその避難先だと考えられます。

この事件は、完全なでっち上げでしょうね。今川の追及に窮した新野、小野が「直満謀反事件」をでっち上げます。「北条と通じた」としたのは、甲駿同盟を意識して、武田に迷惑をかけないためでしょう。当時今川が敵対関係にあったのは北条です。その方が、信ぴょう性が高くなります。

ニセ密書を捏造し、使者に見立てた何者かを暗殺し、「婚約祝い」と偽って直満、直義を駿府に呼びだし、「問答無用」と処刑してしまったものと思われます。

井伊のおとわ、亀の丞と、今川の手先である小野の鶴丸・・・長い葛藤の幕開けです。