07 帰蝶の嫁入り(2020年2月26日)

文聞亭笑一

先週は光秀とお駒さんが、一つの筵で一晩を過ごす場面で終わりました。

今回の番組では〈年月〉を敢えて言いませんので、追っかけ記事を書く私は「今は何年なのだ?」と悩みながら見ていますが、一般の視聴者には関係ありませんね。

前号で「織田信秀は長くはない」という京の医師の発言から「1550年ころ」と想定しましたが、どうやら間違いでした。1548年をやっていますね。・・・であれば、主役の明智光秀は20歳です。

あの晩、光秀とお駒さんに何があったかは皆さんの想像の世界ですが、光秀の正室は妻木家から迎えた煕子(ひろこ)です。お槇の方、お牧の方、または照子という説もありますが、どれもこれも小説家の推測で作った名前のようです。

NHKがどの名前を使うかわかりませんが、とりあえずもっとも一般的な煕子にしておきましょう。光秀と結婚するのはまだ先です。

煕子さんには内助の功としての有名な話があります。いずれドラマに登場すると思いますが、越前の朝倉家にいた頃、金に窮した光秀のために「髪を売る」という話です。

これが有名になったのは松尾芭蕉の

月さびよ 明智が妻の 話しせむ (芭蕉)

・・・という句が発表された江戸期以降です。芭蕉が越前を訪ねた折に読まれました。越前では

あわれやな 兜の下の キリギリス (芭蕉)

・・・もあります。いずれも、戦国期の動乱を偲んで作った句だと言われています。

この年、斉藤道三の娘・帰蝶が織田信長の元に嫁入りします。「美濃からの姫」ということから「濃姫」と呼ばれます。婚礼の日は、正確に言うと1549年3月23日です。

二人の年齢は、信長は14歳、帰蝶(濃姫)は13歳です。中学生同志ですね。

嫁入りを急がせたのは尾張の織田方の事情が大きかったようで、体調を崩していた織田信秀が、美濃との講和を急ぎたかったようです。

元々、講和条件として婚約が成立していたのは1942年のことでしたが、互いに幼すぎるので延び延びになっていたものです。

この間に、道三は帰蝶を守護の土岐頼純に嫁入りさせ、さらには頼純を暗殺していますから、帰蝶は未亡人、出戻りからの再婚になりますが、13,14歳と云った年代で新婚も再婚もありませんね。そういうことを気にし始めたのは、西洋文化が入ってきた明治以降です。

この婚礼の媒酌人は明智光安・・・光秀の叔父です。媒酌人に指名されたのは帰蝶の叔父に当たるからでしょう。

帰蝶は明智光安の妹・小見の方の子なのです。そうなると当然のことに、従兄に当たる光秀も嫁入り行列のお供、というか小間使いに走り回ることになるでしょう。花嫁行列に従って、尾張・清州に出かけます。

吉法師と呼ばれていたヤンチャな信長、その子分の前田利家や佐々成政などが登場するかもしれません。柴田勝家や丹羽長秀などの、織田家臣団の顔見せがありそうですね。

一方で、織田家側の代表として周旋に当たったのが平手政秀です。信長の守役として教育を任されますが、あまりのヤンチャと言うか、非常識な行動に手を焼いて、最後は切腹して諫言をしたという人ですね。

それほどに信長への思い入れの強かった人で、改革者信長に表と裏の使い分けを教えてきました。 美濃側も尾張側も「良い人」が二人で相談し、婚礼が成立しました。

さて、主役の光秀はどうなりますかねぇ。

媒酌人の叔父の明智光安の供をして、尾張の清須城に向ったであろうと推察します。

帰蝶はいきたくないと渋ったのかもしれませんが、従兄の光秀が相談相手に選ばれるのには何の不思議もありません。

嫁入り道中は、岐阜から長良川を船で下って、墨俣か、一宮かの辺りで上陸し、古渡に向かったのでしょう。しかし、この道筋は安全な航路とは言えません。木曽川の水運は、野盗、野武士と言われる連中の巣窟でした。

この辺りで野武士と言えば…、すぐに思い浮かぶのは蜂須賀小六です。

川並衆・蜂須賀党

今までの戦国ドラマは、太閤記や信長公記と言った書物を下敷きに書かれた小説、脚本ですから蜂須賀小六と言えば野性味あふれ、筋骨隆々たる大男が、熊の毛皮などを纏って、半裸の姿で登場しました。いかにも野武士、山賊・海賊と言った風体でした。

しかし、蜂須賀家はれっきとした在所の武家です。木曽川沿いの農地・農民をまとめ、木曽川の水運を使った交易もしています。そして斉藤道三の時代に、小六の父親は斉藤家の有力な被官(家来筋)として、岐阜に出仕していました。その縁もあって、小六(正しくは小六郎)は道三の側小姓を務めていたとも言います。

日吉丸(秀吉)と蜂須賀小六が、三河の矢作川の橋の上で出会ったという有名な場面がありますが、あれは大ウソです。当時の資料を精査した結果、矢作川に初めて橋が架けられたのは江戸時代になってからですから、橋の上で出会えるはずがありません。秀吉と小六の出会いは木曽川付近でしょう。小六が三河辺りまで出かける用事がありません。

ともかく「太閤記」は嘘だらけですし、それを物語風にした江戸期の「甫庵太閤記」はさらに面白おかしく脚色しましたね。太閤記の作者は、当初は大村幽古でしたが、秀吉からの度重なる改竄要求に耐えかねて逃げだしてしまいました。

仕方がないので信長公記の作者・太田牛一を呼びだして、続きを書かせます。それも秀吉自らが口述して記録させたという代物で、今風に言えば秀吉の自分史ですね。秀吉が大活躍する部分は「話半分以下」に読まないといけません。

蜂須賀小六が斉藤道三に仕えていたのは事実のようですから、明智光秀とも顔見知りであったことでしょうし、また、後の長良川合戦では共に道三方として戦っていますから、戦友でもあったと思います。

小六は、その後の浪人中に秀吉との出会いがあって…、墨俣一夜城の作戦に築城の材料の調達や加工、水運を使った輸送などで協力していきます。秀吉の草創期からの一番家老として、阿波国の国主となり、一国一城の主にのし上がっていきます。

「エラヤッチャ エラヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ」の殿様は野武士の末裔ではありません。

蜂須賀家では誤解を解くのに江戸期を通じで300年も努力を続けてきたようですが、いまだに「野盗上り」のイメージが抜けませんね。歴史小説、映画、ドラマの罪でしょう。

今回は柴田勝家とか、木下藤吉郎とか、・・・、いずれは光秀のライバルとなる織田家の家臣団の顔見せになりそうな予感がしますが…どうなりますか。