08 旅ゆけば

文聞亭笑一

なかなか先に進みませんね。渡航費用を捻出するための寄付活動は今週にまわったようです。

それはそうで…、あまりに早く進めたら一年持ちません。志ん生の話などを交えながら、のんびりやるのでしょう。ただ、そうなると・・・面白みに益々欠けてきます。

新聞によれば、「いわゆる大河ドラマファンには不評だが、若者中心に新しい視聴者層を開拓している」とかで、典型的な大河人間の私などは

クソ真面目な 四三の姿に苛々(イライラ)と 先を急ぎし今年の大河

といった感じです。とりわけ四三のマラソン呼吸法「スースー ハーハー」が耳について物語に入りこんで行けません。

とは言え・・・、もう少し我慢してみます。

大森兵蔵とその妻・安仁子

色々な人物が登場するのが大河ドラマですが、説明もなしに登場してくると混乱します。

オリンピック代表選手になった四三と弥彦の「監督」として登場するのが大森兵蔵で、田舎者の四三に西洋マナーや、英語を教えるのが兵蔵の妻・安仁子(あにこ)です。

大森? Who? ですよね。

大森兵蔵は岡山県の生まれで、東京の大学に進みます。都会で付き合う欧米人との体格差を見て「日本人の体格を向上させたい」という夢を持ち、アメリカに渡りスタンフォード大学に留学します。

が、語学力などの壁に阻まれて中退、現地のYMCAに勤務しながら、理論ではなく実践で体育を研究、習得していきます。

彼がアメリカで学んだのは

「体育とは修行ではない。楽しくなくては体育ではない」

というゲーム感覚で、その意味で大森の興味を掻き立てたのがバスケットボールとバレーボールでした。この競技を日本に持ち込み、指導していったのが大森兵蔵です。こういう活動を通じて嘉納治五郎との接点ができ、オリンピックにもかかわってきます。

嘉納が大森に注目したのは、彼の奥さんがアメリカ人であることです。大森安仁子と書きますがAnny アニーです。大森とは20歳も歳が離れています。

こう書くと・・・大森50歳、アニー30歳と思います。私はそう思いましたが…実は逆でした。

アニーが50歳で、大森が30歳で結婚しています。「姐さん女房」という言葉がありますし、「年上の女房は金の草鞋で迎えよ」などとも言いますが、ここまで離れると「母ちゃん女房」といった感じになりますね。

そもそものなれそめは、大学を中退して金に困った大森がアルバイトでアニーの家に家政夫に入ります。そこで気に入られて…若い燕。帰国するに際して、アニーがついてきた・・・ということらしいです。

こんな話…週刊誌的ですねぇ(笑) まぁ、今年の大河は週刊誌的です。

シベリア鉄道

日本からストックホルムまで…現代人の感覚からすれば「飛行機で一っ飛び、24時間以内」の感覚ですが、1912年・百年前は飛行機路線がありません。洋行と言えば普通は船です。

しかし船でヨーロッパ、それも北欧のスエーデンまでとなると時間の流れが緩やかです。

1941年の数字で日本とヨーロッパの間の船旅の日数は35日だったと言われています。

四三たちがヨーロッパを目指した1912年では、もっと時間がかかっていたでしょうね。

それよりも早い乗り物、それが、ロシア帝国が1904年に完成させたシベリア鉄道です。

1941年の実績では「ウラジオストックとモスクワ間を15日で済ませた」とあります。

船旅の35日に比較したら、革命的早さです。当時の新幹線でしょうね。

ウラジオストックからモスクワまで、鉄道距離は9、289kmあります。現代の特急列車「ロシア号」でも7日間かかります。9000km…想像できますか? ちなみに東京―京都間は500㎞です。

この鉄道が完成したのが1904年です。これは日露戦争の真っ只中の時期です。

四三たちは完成直後のシベリア鉄道の乗客でしたね。当然のことながら鉄道周辺のソフト開発(宿泊、食堂など)は全くできていなかったでしょう。四三と弥彦は、駅に停まる度にパンを求め、日本から持参した魚の缶詰を開けて食事をしていたようです。

この生活でストックホルムまで17日間、競技をする前に栄養バランスを崩し、体力を消耗してしまいます。

更に、四三と弥彦を悩ませたのは北欧の「白夜」でした。旅をしたのは5月です。夏至に近く最も昼の長い季節です。大会期間中は夜がない・・・というのがストックホルム・オリンピックで、各種競技の開催期間は5/5~7/27でした。将に夏至を挟んでの3か月でした。白夜の経験がない日本人には堪(こた)えたでしょうね。

旅行中の17日間、練習をしなかったのか? もしそうだとすれば競技どころではありません。エコノミック症候群で健康すら害してしまいます。四三も弥彦も、駅に停車する度に駅の周辺を駆け回って筋力の衰えを防ぎます。それでも・・・大半の時間は狭い座席に縛り付けられた状態ですから、血流は乱れ、ストレスもたまったでしょうね。

物語とは離れますが、開通当時のシベリア鉄道って…アッと驚くような仕掛けがありました。

太平洋から大西洋まで繋ぎますから、途中には幾つかの大河があります。そして湖があります。川での難関はオビ川・・・ここは難工事を乗越えて長大な鉄橋で渡ります。

最大の難関がバイカル湖でした。鉄橋を作るには大きすぎます。迂回するには迂回路が長すぎます。更に・・・夏は湖ですが、冬は凍結します。

この湖の特性を利用したアイディアに…、感心しますねぇ。

夏は砕氷船を改良したフェリーを就航させて、一直線に湖を突っ切ります。

冬は結氷した湖の上に「仮設線路」を敷いて、その上に鉄道を走らせます。私たち日本人には想像できませんが、氷の上を、あの重い機関車と、客車や貨物車が行き来するのです。

「シベリアなら…さもありなん」とも思いますし、「エー、ホント?」と疑いもします。

ならば春と秋はどうしたんでしょうか?

今週はストックホルムに向けて・・・、・・・まだ出発しないかもしれませんねぇ。

また先走ったような気がしますが…、ゴメンナサイ 書くことがないんです(笑)

そういえばストックホルム大会では「綱引き」という競技がありましたね。