乱に咲く花 04 密航を決行

文聞亭笑一

吉田松陰という人を、教科書や小説の中でアバウトに理解し、まじめに、本気になって考えたことのなかった私ですが、今度ばかりはそれでは原稿が書けません。この時代に、やれば死罪になり、家族すらも…とんでもない目に遭わされるという行為を敢えてやるからには、何らかの覚悟があったのだろうと思います。ミーハー、チンピラの兄ちゃんや姐ちゃんが、良い格好をしたいというだけで衝動的に動くのは別でしょう。松陰・寅次郎の育った松下村の杉家は、家族の絆というか、血のつながりを大事にする家だったようです。ならば…なおさら覚悟が要ります。自分一人のことでは済みません。「大和魂」という信念・信条だけで説明するわけにはいきません。

まず考えられることの一つは、九州平戸、長崎への旅で見聞した事実と、佐久間象山を通じて教わった欧米キリスト教の博愛主義の思想を信じていたことだろうと思います。

日本古来の伝統文化にも「窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たず」という格言があります。ある意味では楽観主義ですが、これに賭けたのではないでしょうか。

もう一つは、自身の説得力に自信があったのだろうと思います。「話せばわかる」「至誠巌をも通す」を信じて、ペリーを説得・折伏してやろうという意気込みだったと思います。

ですからかくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬ大和魂…と、賭けに出たと思います。

さらに、象山や他の情報ルートからジョン万次郎の話を仕入れていた可能性もあります。アメリカ社会の常識、ものの考え方などからすれば、成功確率はかなり高いと踏んでいたのではないでしょうか。この事件に佐久間象山が関わっていたことは確かで、象山は大した言い訳や抗弁もせずに「蟄居」の罪に服しています。

アメリカ側は、この事件…寅次郎たちの渡航を拒絶した理由について、その正式記録に次のように載せている。

「この処置は、もしペリー提督一人の感情で事を運んだなら、二人の気の毒な日本人を喜んでかくまったであろう。しかし、米国はやっと・・・やっと日本との間に条約を結んだ。ここで日本の国内法で厳禁されている海外渡航を手助けしたとなれば、条約違反を指摘されかねない。さらに…疑えばきりがないが…この二人は日本政府の間諜ではなかろうか。米国が約定を守る国か否かが試されている」     (司馬遼太郎・世に棲む日々)

松陰は武士です。同行した金子重輔も足軽身分とは言え武士です。後に米国民を感心させたSAMURAIです。漕ぎ寄せた米国艦の担当者、通訳官を相手に堂々と論陣を張ります。ジョン万次郎のような難民ではありません。人道的憐れみを乞うのではなく、堂々と渡航を要求します。これが…上記のような疑いを呼んでしまったのかもしれません。

「出会いがしら」の事件ですから、あとからは何とでも言えますが…運が悪かった、としか言えませんね。しかし…このことがあったからこそ、松下村塾ができ、そこに長州の俊英が集まり、革命勢力の一つになっていくのですから、人生はあざなえる縄の如しです。

松陰は、事破れたならばジタバタしても仕方がないと下田奉行所に自首します。

国禁を破った大罪人ですから、畳一畳ほどの檻に二人とも押し込められます。この様子を米国艦の参謀大尉は概略、以下のように記しています。

彼らはその不運に平然と耐えていた。米国士官が近づくとその訪問を大変喜び板切れに書いた漢文を手渡した。それにはローマの硬骨軍人を思わせるような哲学的思想が書かれていた。曰く「英雄もその志を失えば、その行為は悪漢盗賊と見なされる。我らは非難されるようなことをしてはいない。五大州をあまねく歩かんとする我が志は破れたが、我らはそれを嘆きはせぬ。嘆けば愚者になり、笑えば悪漢になるのだから、私は唯沈黙を守る」

ともかく、ペリーは痛く感心したようで、なにがしかの働きかけを下田奉行所にしたのではないでしょうか。それがあったからこそ、即・打ち首などの処分ができず、国許送還のような軽い刑で収まったものと思います。

ところで、松陰と一緒に密航を実行した金子重輔ですが、彼は最初から侍ではありません。百姓の子ですが、父が萩の町に出て染物屋を開業した時に、一緒に着いてきて手伝いをしていました。縁あって足軽・金子家の養子になり、下級武士の仲間入りをしたという経歴です。歳は松蔭より一つ下で、育った環境もあって学問があるわけではありませんが、松陰同様に行動派です。黒船・攘夷という世論の嵐の中で、居ても立ってもいられず脱藩して江戸に出てきてしまったという男で、こういうタイプの男が、後に京の都で片や勤皇の志士、片や新選組として斬り合いをすることになります。

時代の熱気とでもいうんでしょうか。安保闘争、学園紛争と続いた我々の世代も、同様な雰囲気がありましたよね。安保条約とは何を契約するのかなど何も考えず、頭から「良くない物」と決めつけて暴れまわりました。学園紛争も「何が問題か」よりも「教授はけしからん奴だ」という結論が先にあって、闇雲にゲバ棒を振り回していました。赤軍派からオーム真理教へと繋がっていく系譜でもあります。

攘夷、攘夷と国中の志士が唱えているが、ことごとく観念論である。空理空論の挙句、行動を激発させることほど国を破ることはない。世のことに処するや、人は先ずものを見るべきである。実物、実景を見てから事態の真実を見極めるべきだ。

と、松陰は伝馬町の牢の中で、牢番や囚人を相手に語り続けます。だから俺は…国禁を破ってでも、かの国の文物を見に行きたかったのだ…と。相手かまわず、誰にでも語りかけ、演説をするのが松陰の持ち味です。

現代の、民主党の党首選挙を見ながら書いていると…まさに、実感を持ってこの松陰の言葉が理解しやすくなります。攘夷を改革と置き換えたらそのまんまです。鳩、菅、小沢が空理空論を唱え、国を破ってしまったのは、ついこの間のことです。それに手を貸したマスコミの軽薄さ、とりわけ朝日などの大新聞には唾を吐きたくなりますねぇ。

高度成長時代、日本の企業を支えてきたのは三現主義でした。現場、現物、現象・・・先ずものを見よ…の態度が、この国をJapan as No1に導いたのです。この態度はいわゆる理系の立場ですね。英語が好きな人は、このことを5W1Hとも言いました。

When, Where, Who, What, Why, How… 懐かしいですねぇ。いつ、どこで、だれが、なにして、どうなった、なんでや…と、こればっかりやっていた時代もありました。

「なぜ、なぜ、なぜと3度問え…」トヨタかんばん方式の手法の一つでもありました。

寅次郎が江戸から長州に向かう時は、常に罪人で監視付です。従って新しい情報は手に入りにくいのですが、囚人籠の中からも演説を続けますから、まるで全国遊説に出た政治家のようです。「そうだ!」の声も飛べば、罵声も飛びます。そう言った反応を知るだけで松陰にとっての情報は十分でした。相模路では…、東海では…、近畿では…中国筋では…

情報と言うものは二方向性が基本です。情報を発信すれば何がしかのレスがありますが、発信しなければ何も入ってきません。発信数と受信数は比例関係にあります。

ともかく松陰・寅次郎はタフです。人通りのあるうちは語り、日暮れてからもなお語り、行く先々で日本国の危機を訴えます。

密航事件の実行犯、吉田寅次郎と金子重輔は囚人として萩に送られますが、それと同時に、教唆犯の佐久間象山も国許の信州・松代での蟄居を命ぜられます。さらに、象山門下で寅次郎と並び2虎と称された小林虎三郎も「横浜開港説」を唱えたがために、幕府に睨まれ、越後・長岡の国許に追放されます。これで神田木挽町の象山塾は解散同様になってしまいました。

更に、この時期には勝海舟も海軍伝習所設立の提案が認められて長崎に向かっています。維新物語の主役が、一斉に江戸の町から姿を消した時期でもありました。

久坂玄瑞の元の名は義助である。久坂家は代々藩の御典医で、家禄は25石であった。義助の兄・玄機は少年の頃から秀才として名が響き、家学の漢方のほかに蘭医学を学び、更には強烈な攘夷論者であった。それもあって、玄機は藩から海防対策をまとめるように指示され、不眠不休でそれをまとめたのだが、無理が祟って急死した。

そのことがあって、義助が家を継ぎ、頭を剃って玄瑞と称した。

先週から久坂(くさか)玄(げん)瑞(ずい)が登場しました。文の最初の亭主になり、禁門の変で討ち死にする男ですが、玄瑞というのは医者としての名前です。ですから、この時期は医者らしく坊主頭でないといけないのですが、文との出会いがあったかどうかと同様に、まぁ大目に見ましょう。ホームドラマ展開ですので、私など歴史好きにとっては少々まだるっこい展開です。そのせいでしょうか? 視聴率も低いですね。