次郎坊伝 03 出家か人質か

文聞亭笑一

第二話で、おとわが自ら髪を切ったという話になりましたが、現存する史料ではおとわから出家して次郎法師になった時期に関しては定かでありません。更に、寺に住み込んで修行したのか、在家の僧侶として自宅から修行に通ったのかも資料にはありません。

ただ、従来から定説とされてきたのは「直親が信濃で妻を迎え、子をなしたことを知ったころ」ではないかと言われていました。どちらにしても、どうでも良いことで、亀の丞(直親)が留守にしている間に出家した事実に代わりはありません。

今回は、今川家に人質として送られるという設定で物語が進みます。今川家の状況も知っておかないと物語の展開が分かりませんからね。その意味で今回は今川家の顔見せ興行になります。春風亭昇太の演じる義元・・・「笑点」とは違う味を見せてもらいたいものです。

今川と北条

今回の物語では、今川と北条は敵同士、伊豆の国をめぐって争奪戦を繰り返す宿敵として描かれます。

確かに、北条早雲が伊豆から相模に進出して3代、氏康は早雲の孫に当たります。一方の今川も、早雲が今川家に仕えていた頃から見れば3世代目です。孫同士の世代になれば相互の親近感は薄れ、裏切った、裏切られたという相互嫌悪の方が大きくなるでしょう。他人より親戚の方が、決別後は憎しみが強くなるようです。その意味で一門、一族を統率するというのは難しいですね。難しいだけに、孫世代が集まって和やかにしている家というのは値打ちがあります。最近は創業者一族での争い事がニュースになりますからねぇ。なまじ金があるから争うのでしょう。

司馬遼太郎の早雲物語「箱根の坂」によれば、北条早雲の今川時代の名は伊勢新九郎です。室町御所の将軍秘書官・伊勢家の末で、鞍作(くらつくり)の名人から、今川に嫁入りする伊勢家の姫に従って今川家臣になった…とされています。義元の祖父の時代です。その祖父が遠州方面の戦で討ち死にし、幼君を盛り立てて、今川の屋台骨を背負ったのが伊勢新九郎(早雲)です。領主が成長するに従い政権から離れ、東方の脅威である関東管領の上杉(謙信の上杉ではない)と対峙します。この時の上杉の武将が太田道灌・・・江戸城を作り、30余戦を戦い敵なしと言われ、しかも

「七重八重 花は咲けども山吹の みの(実の/蓑)ひとつだになきぞ悲しき」

の歌で知られる名将です。「道灌の目の黒いうちは関東に手は出せぬ」と早雲もお手上げだったようでしたが、道灌人気を邪推した関東管領の上杉定正が、道灌を風呂に誘って暗殺してしまいます。

これで早雲が伊豆から相模に進出する糸口ができました。早雲は今川から独立して(分家)伊豆を奪い、相模へと進出します。それを武蔵、上総方面まで広げたのが二代目氏範、更に、上総、下総、安房から、北関東にまで手を伸ばしているのが三代目の氏康です。三代続いて、政治も軍事も優秀でしたから、破竹の勢いでした。真田丸で公家風をしていたのは四代目、秀吉に降参したのが五代目です。

いずれにせよ、今川と北条は近しい間柄でしたが、世代交代の度に敵対していきます。

今川義元

京好みの公家風で、戦国武将らしく見えませんが…政治力はなかなかのものです。北条が西への侵略を諦め、東に矛先を向けたのも、武田信玄が南進を諦め、北へと矛先を向けたのも、義元の政治力に依ります。最大の武器は経済力ですね。それに、京都の幕府との密接な関係(権威付け)でしょう。幕府の力は衰えていて指揮権はないに等しいのですが、権威・信用は依然として幕府にありました。関東公方(くぼう)、関東管領(かんれい)の権威が地に堕ちていましたから、「東海以東の領主の正当性を認可するのは今川である」といった雰囲気を作っていたのです。そのための公家風化粧ですね。眉剃り、鉄漿(おはぐろ)、厚化粧…。単純な都ボケではありません。

ただ、女癖の悪さが難点でした。人質として受け取った他家の姫に、片っ端から手を付けます。見目(みめ)麗(うるわ)しと聞けばすぐに召し上げて手を付けます。こういうところが評判を落とし、井伊直平のような面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)の豪族たちを産んでしまいました。

こうなったのは・・・生い立ちでしょうね。物心ついた頃から京の建仁寺に出家させられ、禁欲生活を強いられてきました。この時代の男子は15歳以前に元服し、妻帯します。妻帯しないまでも、自由恋愛のようなものですから、家柄が良ければ女に不自由しません。ところが…禅寺はことのほか禁欲に関して厳しいのです。悶々(もんもん)として過ごした青春時代の反動でしょうね。やりたい放題です。

井伊家の人質、佐名に対しても同様です。手をつけて、飽きたら使い捨て・・・で、家臣の関口(せきぐち)親(ちか)永(なが)に下げ渡してしまいます。

関口親永は、元々今川の血筋です。今川の分家である瀬奈氏の次男で、関口家に養子に入っています。 武将というよりは事務官僚タイプだったようで、今川家の経済を支えたという点では優秀な官僚でした。

太原(たいげん)雪(せっ)斎(さい)

今川義元の軍師・・・と云うより、陰の今川領主とも言える人物です。雪斎禅師、雪斎和尚などとも言いますね。今川義元の修業時代からの先輩、というか指導者で、義元からは全幅の信頼を受けています。

戦国物語の中には「駿河の支配者は雪斎であり、義元は傀儡(かいらい)である」という仮説で描いたものが多いのですが、それは飛躍し過ぎでしょう。雪斎亡き後、義元が桶(おけ)狭間(はざま)で信長にあっけなく討たれたために、

義元はバカ殿であったと、決めつけ過ぎです。義元には、雪斎のほかにも寿(じゅ)桂(けい)尼(に)というスーパーママゴンがいて、その両者を使い分けながら、政治を取仕切っていました。優秀な参謀二人を、巧く使いこなすというのは実に難しいことなのです。戦国期で同じ状況にあったのは秀吉ですね。黒田官兵衛と竹中半兵衛を実に巧く使いました。秀吉の場合はどちらも部下、臣下ですが、義元の場合は実の母親と、修行時代の先輩/上司です。 どちらも目上の人です。秀吉以上に難しかったと思いますね。

雪斎は駿府に臨済寺(りんざいじ)を開きます。修行したのは建(けん)仁寺(にんじ)ですが、雪斎の開いた寺は妙心寺派に属します。このいきさつは良く分かりませんが、同じ臨済宗ですから大差なかったのかもしれませんし、新規の寺ですから、寺格などの条件の良い方を選んだのかもしれません。お寺にも歴史と「格」があって、寺格を一つ上げるのは大変なことらしいですね。修行を積み、金を積んだら済むというものでもなさそうです。

後にドラマで活躍するでしょうから説明を省きますが、雪斎は川中島で対峙する信玄と謙信を仲裁したり、甲斐・駿河・武蔵の三国同盟を締結したりと、スーパー外交官として活躍します。

また、後の徳川家康・松平竹千代の教育者としても名を残します。

瀬奈・氏(うじ)真(ざね)との出会い

この二人とおとわの出会いがあったというのは・・・はなはだ疑わしいですが、あったことにしましょう。

なかった、と反証できる史実はありません(笑)

瀬奈は後の家康の正室・築山(つきやま)御前(ごぜん)です。家康との間に一男一女をもうけます。小説では悪女として描かれることが多く、「歴史上の悪女列伝」などでは常にベストテン入りしていますね。

しかし、現代の物差しで見れば、才能豊かな優秀な女性です。生まれてくる時代を間違えました。

ただ、難を言えば「今川の家風」に心酔していて、徳川、織田の家風をバカにし過ぎたことでしょうね。現代の夫婦でも良くあることですが、都会育ちや教養を鼻にかけ、田舎育ちの亭主をバカにするタイプです。馬鹿にするだけならまだしも、教育して自分に従わせようとするところまで行くと・・・、亭主が社会的地位を得た後は、悪女にさせられます。去年の番組の淀君などもそうですが、自己主張をして引っ込み方を知らないと…顰蹙(ひんしゅく)を買います。

オアシス運動の「ス」 すみませんでした・・・が言えない人は男女の別のかかわりなく高評価を受けません。オアシスですか? オはようございます アりがとうございました シつれいしました スみませんでした ・・・新入社員訓練で叩きこむ日常挨拶です。

瀬奈は氏康の正室候補・・・として育てられたのかもしれません。明治の歌人・与謝野鉄幹は 妻を娶(めと)らば才長(た)けて 見目麗しく情けある・・・と歌いましたが、まさにその通りの才媛でした。

義元からことのほか愛され、鶴姫、亀姫の二人が、幼少の頃から常に氏真と一緒でした。許嫁ではありませんが、周囲もそう認めていたようです。しかしこの環境が一変したのは、雪斎の政略に依って、甲駿同盟が成約し、氏真が武田信玄の娘を正室に迎えることになったからです。不要になった鶴姫・瀬奈は徳川家康へ下げ渡しとなります。この辺で歯車が狂ったでしょうね。

「世が世なら今川の太守の妻なのに…」

この「のに」が悪さをします。「のに」は感情を相手に押し付けます。相手にとってこれほど迷惑なことはありません。とりわけ「してあげたのに…」の「のに」ほど嫌な物はありません。子どもの非行化や、亭主の浮気、その原因の半分ほどは母親に依る「のに」攻撃だという説もあります。わかっちゃいるけど鬱陶(うっとう)しい・・・まぁ、そんなところでしょう。トランプさんが「日本を守ってやっているのに…」と言い始めました。鬱陶しいですねぇ。金を払って、横田も、厚木も返してもらいましょう。

アレレ…いつの間にか「たわごと&笑詩千万」流になってしまいました。🙇

ともかくも「のに」はやめよう…と相田みつを氏が言っております。万病の素だそうです。

次郎法師

文聞亭は勝手に次郎坊と言っていますが、正しくは次郎法師です。

出家したおとわに、なぜ「次郎」という男の名前を付けたのか。理由は二つあります。

一つは井伊家代々の諱(いみな)です。井伊家では嫡男、嫡孫に「備中次郎」という名を付け、代々伝えてきました。南朝時代に後醍醐天皇から直々与えられた官名が「備中守」だったからでしょう。あちこちで自称している〇〇守とは由緒、格が違うという、井伊家の誇りでしょうね。

おとわの場合は、この備中次郎を継ぐべき正統の男子がいませんから、諱(いみな)を残す意味があります。

さらに、女が出家すると普通は尼になりますが、仏教上の戒律では、尼になると二度と現世に戻れません。万が一を考えると、おとわにも、還俗(げんぞく)して婿を取ってもらわなければならない時が来るかもしれません。そのためにも尼では困るのです。還俗可能な僧でなくてはいけません。還俗とは僧からフツーの人に戻ることを言います。

この時点でおとわ、次郎法師は女でなくなりました。男として生きることになります。 とはいえ、亀の丞を想う気持ちは女の子です。離れているほど恋しさは募ります。