敬天愛人 03 お由羅騒動

文聞亭笑一

今回の大河は前半の進捗が早く、原作の前半部分をどんどん先に進んでいます。

蜻蛉釣り 今日はどこまで 行ったやら は加賀の千代女の句ですが、全くそんな感じで

第三話 今度はどこまで 進むやら と見当が付きません。しかし、薩摩藩の複雑な内情を紹介するであろうと思われますので、その辺に焦点を当てて今回の文章を綴ってみたいと思います。

役人の不正

前回の放送で、郡方の役人が枡からこぼした米を自分たちの懐に入れる不正をやっていましたが、不正の方法はそればかりではありません。大地主の隠し田を黙認する代わりに賂を受け取ったり、畑作地を「陸稲を作る田である」と言いがかりをつけて口止め料をむしり取ったりと、やりたい放題をしていました。正義派の吉之助にとってはなんとも我慢がなりません。

家老の調所笑左衛門のところに直に掛け合いに行ったという事実はありませんが、直属の上司郡方奉行の迫田太次右衛門のところには強談判に出向いています。迫田は役人たちが不正を働いている事実は知っていましたが、注意することはしませんでした。それは、役人たちの家計の苦しさも十分承知していたからです。この時代は薩摩藩に限らず、どの藩でも借金地獄にあえいでいて武士たちも給与カットをされていました。50%カット・・・などは良い方で、表向きの石高の2、3割程度の俸給が普通だったようです。

例えば西郷家の場合ですが、父の吉兵衛の俸給は表向き47石です。これが丸々もらえていれば、貧しいながらも食うには困らなかったはずなのですが、実質はもらえていません。米すら回ってこず、貨幣での給付になりますが、その両替レートがベラボーにインフレでした。蓄財として米の方が値打ちも高く、且つ、水運を使えば運搬に便利ですから、年貢を米で取りたてて大阪に運び、銭に替えて江戸や国許に送っていました。米穀取引の中心は大阪です。

吉之助の度重なる不正追及、苦情申し立てに、正義と実態とのはざまに苦しんでいた迫田は、奉行職に嫌気がさして辞任します。その時、辞表に書き添えた歌というのが残っています。

虫や虫 五節草の根を絶つな 絶たば己も共に枯れなん

五節草とは稲のことです。不正役人を稲につく害虫になぞらえて、百姓を絞り過ぎぬように、と注意を促す歌でした。まぁ、「程々にしておけよ」という警句でしょうね。こういう歌がまかり通るということは、生産力に対し薩摩藩には武士とその家族が多すぎるということでもあります。吉之助がいかに正論を吐こうとも、構造的な問題ですから行政改革をしない限り解決しません。しかし、それは武士をリストラするということで士農工商の身分制度を破壊することになります。これは後に、西郷をして西南戦争に引きずり込んでしまう薩摩の構造的欠陥でした。

調所笑左衛門

今回は通称の「笑左衛門」ではなく「広郷」の名で出ています。この人は、元々は武士階級ではありませんでしたが、経理、会計の才を見込まれて新規召し抱えになった経済通です。

笑左衛門が勘定方に就任してやったことは、まず、500万両にのぼる藩の借金の踏み倒しです。「借金は無利子で250年の年賦とする」と一方的に宣言してしまいました。

要するに「年に2万両しか返済しない」ということです。無茶苦茶ですね(笑)

こういうことがまかり通ってしまったということが驚きで、江戸や京・大阪の商人たちは、どうして文句を言わなかったのかと不思議に思います。徳政令という名の踏み倒しが頻発していて「それに比べたら…返すというだけマシか」ということだったのでしょうか。

次にやったのが琉球を隠れ蓑にした密貿易です。ご存知の通り江戸幕府は鎖国令を敷いています。海外との交易は長崎一カ所で、オランダとの間での取引で、これは幕府の専売です。幕府の長崎奉行所以外に海外との窓口はないはずなのですが…実際は「抜け荷」という密貿易は西日本の雄藩がやっていましたね。

対馬藩が朝鮮との間でやっています。佐賀・鍋島藩もやっています。五島列島の松浦藩などもやっています。が、いずれも薩摩の調所がやったような大規模な交易ではありません。

調所は琉球政府に密貿易をさせ、その利益を税金(領土防衛税のような名目)で吸い取ります。この辺りが幕府の甘い所で、琉球を自国であると認識していなかったようですね。その意味では北海道も自国領という認識が薄かったようです。北海道は松前藩6千石がある佐渡島程度の小島、という認識で、伊能忠敬が測量するまでは放置していました。

島津家の系譜とお由羅騒動

お由羅騒動というのは藩主斉興の後継者争いです。

この時、島津家には有力な二人の後継者候補がいました。正妻の子・斉彬と、愛妾の子・久光です。斉彬は江戸育ち、久光は薩摩育ち、当然・・・家臣たちも二派に分かれます。 

弥姫(正室)

       斉彬   (切腹6名 遠島・蟄居50名 内・数名が脱走→黒田藩に亡命)

斉興

-------------久光

由羅(愛妾)

斉彬は少年時代からその英才ぶりが評判になるほどで、12代将軍・家慶のお気に入りで、幕閣の水戸藩主・徳川義昭、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、それに老中筆頭・阿部正弘などとも親交があります。さらに次の将軍と目される一橋慶喜の兄貴分的な期待をかけられている中央政界のスターです。現代の小泉進次郎さんのような立場でしょうか。

一方の久光は薩摩育ちで中央では無名です。

が、父の斉興は中央でチャラチャラする斉彬が気に入りません。その最たるものが斉彬の「蘭癖」つまり西洋かぶれで、洋風設備への投資趣味でした。国許の調所一派もこれを「浪費癖」として大いに嫌いました。当然、斉彬廃嫡、久光擁立へと走ります。

国許衆と江戸詰めが対立するのはどこの藩でも同じですが、この時の薩摩は異常なほどに対立が激化しました。父親が堅実派の久光を擁立しようとしましたからね。しかし、斉彬を廃嫡にしたら幕府要人をすべて敵に回すことになります。それも拙いので、自分が居座るという態度をとります。家督を譲らないのです。

この状況を変えたのが密輸密告事件で、その責をとらされて調所が処刑されます。これに腹を立てた斉興が、国許の斉彬派の大粛清を始めます。これがお由羅騒動と言われる事件です。

吉之助が郷中教育で指導を受けた赤山靭負(ゆきえ)は切腹6名のうちの一人ですし、大久保正助の父は遠島の罪に問われ鬼界が島に流されます。下加治屋町の者たちに恐慌が走りました。が、端役にしかついていない西郷家は無事でした。