敬天愛人 45 晋どんここらで

文聞亭笑一

「西郷どん」もいよいよ最終回です。何回か休刊をしましたがようやく大団円です。

白旗

西郷は延岡で軍の解散を宣言します。そして怪我人や生き残りに者たちに投降を勧めます。

原作の、この部分の件(くだり)が わかりやすいので引用します。

「菊次郎、おいの持ってるもので白か物は糸が用意したこの、さらの褌(ふんどし)だけじゃ。

敵が来たらお前はこれを掲げて投降すっとじゃ。

今はありがたい世になってな、国際法というものがある。怪我人や白旗を掲げた者に銃を向けてはならんとじゃ。よいか、お前の頭ん中にゃぁ新かことが一杯詰まっちょる。それがむざむざ死なれたら堪らん。  (中略)

普通、戦というもんは・・・年寄がやりたがって、若い者が死んでいく。

こん戦は反対じゃ。若いもんがやりたがって、年寄も死んでいく」

これが、西郷が火薬庫襲撃を知ったときに「シマッタ!」と叫んだ真意ではないでしょうか。西郷は、政府軍と戦争を起す気は全くなかったと思います。その気があれば江藤新平が援軍を求めてきた時に決起し、熊本の神風連を巻き込んで、更には萩の乱の面々も引き連れてクーデターを起こしていたはずです。

大久保利通

写真は鹿児島市内、甲突川の、下加治屋町の橋のたもとに立つ大久保利通の銅像です。異様なほどの髭が特徴の銅像ですが、この銅像の前で記念撮影をする観光客は意外に少ないですねぇ。どちらかと言えば… 悪役でしょうか?

大久保利通にとって予期できぬことでしたが、後世になって自分の孫が、時の総理・田中角栄と共謀して「ピーナッツ事件」を起こしてしまったことも、不人気の原因かもしれません。

「論理的」というのは、この国(日本)では悪党の部類に入りそうで、とりわけ地域社会にあっては爪弾きに遭いそうな雰囲気があります。漱石は「理に働けば角が立ち」と表現しましたが、「角を立てずに理を説く」というのが大人の技量ということでしょう。これを人格、度量などと表現します。

ただ、度量のある人がやる改革は遅くなります。呑気にやれる環境なら幸運ですが、世の中は待ってくれません。改革を進めるには、三日(短期)三月(中期)三年(長期)で仕上げないと間に合わないでしょう。その意味で、大久保利通が決断した「抵抗勢力の排除」西郷一派の粛清は、日本の近代化にとってMust doの政策でした。

私を含めて読者の皆様は現役時代に大久保利通的決断をやってきた方々ばかりだと思います。

世の女衆と、マスコミの「清く、正しく・美しい」価値観にはAgreeできませんね(笑)

城山の露

官軍総司令官であった西郷どんが落とした、会津のお城は「鶴が城」でした。

その西郷が、最後の砦として意地を見せようとしたのが「鶴丸城」でした。何の因果か鶴です。

鶴丸と言えば日本航空JALの使っているデザインが「鶴丸」ですが、鹿児島城はデザイン的な意味ではありません。白を主体とし、それに黒が加わる形の色彩感覚の城です。

要するに「鶴」「鷺」は白壁を基調として江戸期以降に建てられた城の総称です。

鶴は千年、亀は万年・・・長期政権、長期安定を願う家康が意匠した、漆喰・白壁中心の城で、その代表が世界遺産の白鷺城・姫路城です。豊織期の城は黒の板壁が多く、その代表が、大阪城、松本城です。家康が天下を取った頃に「漆喰」という技術が確立し、白壁が全国的に流行しましたね。石灰の産地が一躍注目を集めます。

西郷たちは鶴丸城の建つ城山を目指します。漱石は「意地を通せば窮屈だ」と言いましたが、鶴丸城で最期を迎える・・・と云うのが薩摩武士の意地でした。

戻った所で成算があるわけではありません。薩摩武士の意地を示すために、自殺の場を求めた行動です。この辺りの心情も「玉砕、万歳突撃」に継承されて嫌ですねぇ。

西郷隆盛が創設し、山県有朋が育てた日本陸軍というのは「武士道とは死ぬことと見つけたり」という佐賀藩の葉隠思想とも共通して、太平洋戦争で多くの犠牲者を出しました。

「特攻隊」などという鬼のような作戦を思いついたのも、根っこは武士道でしょうか。自爆テロなどに発展し、世界の狂気、凶器に成長してしまいました。

今年、高校時代の同級生と「西郷どんの 舞台を見ようではないか」と鹿児島に行きました。

生憎の雨続きで、桜島の頂上すら見ることができませんでしたし、西郷さんのお墓に行った時は篠つくような大雨で、立っているだけで足元から濡れてくるような悪天候でしたが・・・、西郷どんが死んだのもそういう日だったでしょう。

この写真は西郷さんのお墓です。

右に村田新八、左に桐野利明、篠原国幹など、西南戦争の主役たちの墓が並びます

ある意味で壮観ですね。墓石を巡ってみると、歴史書や小説で知っている名前ばかりです。

「たった一日で、このお墓に眠る人たちが皆・・・死んだ」

この墓に眠る人たちは、最後まで西郷と行動を共にした人たちです。その中に、庄内藩士が十数人混じっています。従軍記者というのか、西郷の発する言葉を、最後の最後まで記録し続けようという記者魂です。

「南洲遺訓」は彼らの作品であり、西郷の座右の銘とされる「敬天愛人」も、彼ら庄内藩士の筆を通じて現代に伝えられました。

余話ですが、西郷は前回、延岡で二匹の犬とも別れます。この犬たち、一匹は延岡の近隣住民に保護されて人生?犬生を全うしました。もう一匹は、なんと、鹿児島まで戻り、糸さんの待つ西郷家に帰還しています。

上野公園に立つ西郷さんの銅像のモデルになったのは二匹のうちのどちらでしょうか?

犬の銅像と言えば渋谷のハチ公と、上野の西郷さん…犬好きの皆さんに話題提供です(笑)

今年一年、長らくのお付き合いありがとうございました。    (完)