敬天愛人 36 トコトンヤレナ

文聞亭笑一

江戸市中の錯乱工作・・・戦争とはこういう「汚い手」を多用します。先日友人たちと訪ねてきた生田の、明治大学構内に残る陸軍研究所跡では、そういう汚い手のオンパレードでした。細菌兵器、毒薬、暗殺道具などは勿論のこと、ニセ札を大量に作って相手国の経済を混乱に陥れるなど、いわゆる「ナンデモアリ」の仁義なき戦いです。

あの「西郷さん」が発案し、益満休之助にやらせた江戸霍乱工作・・・スパイ大作戦ですねぇ。

オームの松本、北の金正日、ISと何ら変わるところがありません。

西郷さんは西南戦争を起してから「西郷札」という私的貨幣を作って物資を調達していますから、これはニセ札作りと同じですね。戦争とは所詮、汚いのです。

幕府軍、京へ

慶応4年(1868)1月3日、大阪に退いていた徳川慶喜の幕府は、1万5千の兵を催して京の都に強訴に上ります。

「徳川は大政を返上したが、有力大名の一員である。

これを不当に政権から遠ざけようとするのは薩摩など一部の藩の陰謀ではないか。

さらに、薩摩は江戸市中を混乱させ、暴虐行為を行っている」

その通りです。政権を返上して野党になりましたが、徳川は新政権に対してなんら反対行動を起こしていません。それどころか、金のない新政権の首魁・岩倉に千両を貸しています。そして朝廷・禁裏にも千両を貸しています。新政府には協力しているのです。

ここらあたりが「公家」の信用ならない所で、常に第三者の立場に立ちます。

徳川と薩長に争わせて、朝廷は高みの見物をする。勝った方に就く。

現代のマスコミがまさに「公家」で、理屈ばかりで何もやりません。

最近は揉め事があると、すぐに「第三者委員会に調査を依頼し…」となります。私もあちこちの第三者委員を引き受けていますが、呼びだしがないのが良いですねぇ。お陰様で今まで一度も呼び出しがありません。

大阪城を発した1万5千の幕府軍は大阪城から京に向かいます。

現在は全く消え去って痕跡もありませんが、京都の南には広大な巨椋池がありました。大阪から陸路で京都に向かうには、枚方から鳥羽、伏見に向かうか、西国街道に出て山﨑の隘路を越えるしかありません。幕府の大軍は当然のことながら巨椋池の東を回って伏見に向かいます。

余談になりますが巨椋池・・・池ではありません。湖です。琵琶湖から流れだした瀬田川、紀伊半島から流れ込む木津川(宇治川)、鴨川、桂川など近畿全域の河川を一手にまとめ上げ、淀川という放水路で海へと導く「大遊水地」です。

そして物流の基地でもありました。重量物の輸送は陸上交通よりも水上交通網です。

古代の奈良の都も「古奈良湖」という湖を持ち水上交通で栄えましたが、周辺の山林の伐採が進み、土砂が流出して湖を埋め、結局は遷都せざるを得なくなりました。その意味では京の都も巨椋池の水深が限界に近づいていて、物流機能が果たせなくなりつつありましたね。明治維新があろうがなかろうが、遷都の時期が近づいていました。

錦の御旗とトンヤレ節

錦の御旗のデザインを担当したのは玉松操、岩倉具視にもとに出入りしていた国学者です。

建武の中興で後醍醐天皇や楠正成などが使った旗を復元したデザインにしました。これは…、当時の武士階級が歴史書として「太平記」を教科書にしていましたから、先入観として天皇の旗という刷り込みがあります。

菊の御紋章、日月の紋章

この旗を見たら、当時の上流、中流武士階級の者は「天皇の御親兵」「官軍」と思います。

西郷や長州の山県、大村益次郎など下級武士はその威力を過小評価していましたね。

この旗が薩摩軍の陣に立つのを見て、幕府軍の指揮官たちは腰が引けます。

しかし、戦争というのは勢いです。幕府軍の兵士たちも下級武士や新選組のような農民階級が大勢います。長州の奇兵隊などは武士階級がいない組織です。錦の御旗の意味を知る者はいません。大半の兵士たちは「錦旗」など無視していましたが、そういう者たちにもわかるような「歌」が準備されていました。長州の品川弥次郎が祇園の芸妓に作らせたトンヤレ節です。

一天万乗の帝に手向かいする奴を トコトンヤレ トンヤレナ

狙い外さずどんどん撃ち出す薩長土 トコトンヤレ トンヤレナ

宮さん 宮さんお馬の前でひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ

あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ

岩倉、品川が準備したトンヤレ節では「薩長土」と土佐が官軍として出兵したことになっていますが、実は初日の段階で土佐藩は日和見をしています。

というより、山内容堂の慶喜贔屓に引きずられて、幕府寄りの立ち位置にいました。

錦の御旗と、トンヤレ節に慌てます。遅ればせながらの出兵でした。

更に、幕府方でも戦場にある淀城10万石が幕府への協力を拒否しました。

淀城の主は、大政奉還まで現役の老中であった稲葉正邦です。この寝返りが幕府軍に堪えましたね。数を頼りに京へと進軍しても、淀が敵についたら袋の鼠になります。進軍できません。

しかし、薩摩藩の放った一発の大砲が戦闘開始の合図になりました。

数の力で肉弾攻撃をかける幕府軍、新鋭兵器で狙い撃ちにする薩摩軍、形勢は互角でした。

そう言う混戦の中で西郷の弟・従道、従弟の大山巌が負傷します。

明治になってから勝海舟が「氷川清話」の中で維新を表現して次のように述べます。

事をなすは人にあり 人を動かすは勢いにあり 勢いを作るはまた 人にあり

政治というのは、社会現象というのは、まさに勢いですね。

何かの拍子に始まった「えじゃないか騒動」が、鳥羽伏見の戦で「トンヤレ節」が出てくると、一斉にトンヤレ節の大合唱になります。庶民にとっても「維新とは倒幕である」「徳川を潰すことである」というムードになりました。

慶喜が朝敵になるのを怖れて大阪城から逃げ出し、その後はずっと謹慎します。

なぜそれほどまでに朝敵と言われるのを怖れたのか・・・その心理が不明ですが、もしかすると水戸光圀以来の、水戸藩の尊王のDNAが慶喜の思考回路を凍結してしまったのかもしれません。

そう言う慶喜の処分をめぐって西郷、勝海舟、山岡鉄舟などがぎりぎりの政治折衝を始めます。

今週はどこまで行きますかねぇ。東京・田町駅には西郷・勝会談レリーフがあります。