敬天愛人 16 戊午の密勅

文聞亭笑一

西郷にとって、藩主斉彬の死は、世の中から光を失うほどの衝撃だったと思います。「盲従」という言葉がありますが、それまでの斉彬と西郷の関係は、まさに盲従でした。ドラマでは西郷が斉彬に意見し、その激励によって「義挙」・・・つまり、京都への出兵を決心したという筋書きでしたが、事実は逆、斉彬の決心に西郷の方が仰天するといった形でした。

ともかく…西郷は斉彬を神の如く信奉し、ただひたすらに斉彬の夢の実現に努力する…という態度でしたから「神様が消えた」「羅針盤を失った」「糸の切れた凧」といった心境です。何もやる気にならない中で、唯一、薩摩に帰って殉死することだけが目標になります。

それを停めたのが月照で、原作では月照と吉之助が男色の関係になって慰め合った…、と言う俗説を採用していますが、NHKはさすがにそこまではやらないでしょうね。

戊(ぼ)午(ご)の密(みっ)勅(ちょく)

月照が画策していた起死回生の策は「戊午の密勅」と言われる天皇からの命令書でした。

密勅というのは字面から見て「秘密命令」の匂いがしますが、

「規定に則らず、関白、幕府を経由せず、受命者に直接、天皇の意向を伝える書面」

という意味です。

その密勅が水戸藩に出されました。

それより先に、密勅の中身は月照を通じて水戸藩、尾張藩、越前藩に打診すべく西郷に手渡されています。斉彬喪失の失意から立ち直った西郷は、それを持って江戸へと向かいます。越前藩の松平春嶽に会い、更には水戸藩の武田耕雲斎に会い、天皇の意向を伝える手紙を渡すのが使命でした。

が、江戸ではそれが全くできない状況になっていました。慶喜擁立に動いた殿様たちには厳しい処分が下され、外部との接触は一切禁じられていました。従って、西郷はそれらの屋敷に近づくことすらできません。屋敷の周りをウロウロしていたら逮捕、捕縛されます。

それぞれに下った処分の中身を列挙しておきます。

水戸藩 前藩主 徳川斉昭(烈公) 蟄居謹慎

     藩主 徳川慶篤     登城停止

一橋家  当主 一橋慶喜     登城停止

尾張藩  藩主 徳川慶勝     隠居謹慎

越前藩  藩主 松平慶永(春嶽) 隠居謹慎

蟄居謹慎というのは「切腹」死罪まで行きませんが、最も重い罪です。現在でいう無期禁固刑ですね。隠居謹慎というのは「隠居」ですから社長解任、藩主交代指示です。

登城停止というのも、幕府体制からクビにした、ということですね。解雇です。

水戸藩の場合は親父と、息子二人が処分されてしまいました。

これに逆らうということは「謀反(むほん)」となり、お家取潰しになりかねませんから、いずれも屋敷に竹矢来を立て、厳重な警戒態勢をとります。尾張藩などでは自藩だけでなく、紀州藩も警備に参加し、水戸藩邸は分家筋の高松藩、守山藩、府中藩の藩兵が警備に当たります。

西郷に密書が託されたのが8月2日、水戸藩京都留守居役に密勅が出されたのは8月8日です。

孝明天皇から水戸藩への密勅の内容は

1、攘夷・鎖国を行うべし

2、この件に関して徳川一門に雄藩を加えて衆議すべし

・・・の2点です。島津斉彬、松平春嶽が進めていた路線です。

密勅を受け取った水戸藩京都留守居・鵜飼吉左エ門はそれを息子と部下に託し、江戸小石川の藩邸に届けます。水戸藩士が水戸藩邸に入るのですから咎めだてはありません。

が、ここから水戸藩邸が大騒ぎです。

密勅を梃に、井伊直弼が朝廷に無断でやった条約締結を糾弾すべし  という意見と

恐れ乍ら…こんなものが届きましたと幕府に届け出る  という意見に分かれ、

結局は密勅の封を切らずに井伊直弼の手に渡ります。ここから始まるのが安政の大獄です。

安政の大獄

井伊直弼が、彦根藩士・長野主膳に命じて始めた安政の大獄の論理は

政治判断は朝廷から政治を任された幕府の専権事項である。

それに朝廷が口出しするのは僭越である。

しかも、それを、正規ルート(天皇→関白→幕府)を通さず、直接水戸藩に渡したというのは重大なルール違反である。

天皇や公卿がこのようなことをするはずがないから、その取巻きがやったに違いない。

・・・ということですから、密勅の作成にかかわった者たちは片っ端から捕縛の対象になります。

京都では、まず梅田雲浜が捕まり、拷問されて次々と芋蔓式に逮捕者が増えていきます。

当然のことながら、捜査の手は月照や西郷吉之助にも及んで来ます。西郷の場合は藩邸にいれば直接逮捕拘留される恐れはありませんが、月照は身を隠すところがありません。奈良に潜伏するという意見が出ましたが、関西では危ないと判断し、鹿児島へ…となります。

吉之助と月照は、大阪を経由して鹿児島へと逃げることになりました。

西郷どんの 悪あがき

テレビで取り上げるかどうか・・・わかりませんが、

密勅事件から京都脱出までの間に、西郷や有村など薩摩藩の斉彬派の者たちは「義挙」という名の反乱軍の結成を模索しています。

これは島津斉彬が倒れる前に始めた構想で、薩摩藩が朝廷護衛の名目で京都に進駐し、それに有志の藩が加わって幕府に対抗する勢力を終結し、幕政を変革させる…というものですが、西郷たち若者が騒いでみても始まるものではありません。

西郷が期待したのは福井藩の松平春嶽が立ち上がることでしたが、春嶽は立ち上がるどころか、謹慎の場所を江戸城に近い福井藩の上屋敷から、隅田川河口の霊巌島に移して、幕府への忠誠を示しています。

それでも西郷は諦めず、近衛家から島津斉興に依頼させて、薩摩兵50人を朝廷警護の名目で京屋敷にとどめおきました。この程度の人数で「義挙」などとは無茶な話です。