敬天愛人 12 西郷の手紙

文聞亭笑一

今回の放送でも・・・まだ…地震は起きませんでした。(笑)

水戸藩との交友関係も斉昭、慶喜というトップとの間だけです。

それも・・・慶喜とは品川の遊郭での交流というのですから…コメントのしようがありません。

西郷さんは生涯「書物」というべき物は一冊も発行していませんが、筆まめで身内や仲間内宛に多数の手紙を残しています。藩主の斉彬宛に「建白書」を多数送っていますし、筆まめを証明するような多くの文書が残されています。

今回は、テレビドラマの進捗に合わせて、そういう文書の幾つかを紹介してみます。

まずは先週のテレビで放映された場面が友人への手紙に残ります。

国許の盟友・福島矢三太宛の手紙です。西郷どんから福島宛の手紙が多くありますが、福島は若くして病没してしまったため、維新の登場人物としては無名です。ただ、西郷どんがホンネに近い手紙を出していますから、西郷の気持ちを知る上では参考になります。

「…(略)・・・、さて大変なことが出来(しゅったい)し、誠に紅涙にまみれ、心気絶え絶えになり、悲憤の情お察しください。すでにお聞き及びのことと思いますが、先々月 晦日より斉彬さまが俄(にわ)かにご病気になられ、一通りならぬ御患いで大小便すらお床の中でなされ、殆んどお眠りにもなられませぬ。

虎寿丸様は去る7月23日ついにご逝去あそばされ、残念としか申しようがありませぬ。

斉彬さまは至極お気張りのご様子ですが、私とて身の置き場もなく、目黒の不動に参詣し、命に代えて祈願をこらし、昼夜祈っております。

つらつら思慮しますに、いずれなりと奸女を倒すほかは望みなきと思います。

わが身は塵埃の如くで、明日を頼まぬことですので、いずれなり死に所を得て天に飛揚いたし、薩摩藩の災難を除きたいとあれこれ考えている次第です」

斉彬の病気、虎寿丸の死去などの原因を「奸女=お由羅の呪い」と決めつけているあたりが・・・西郷どんらしさ、です。かなり思いこみがきついタイプですね。「思いこんだら命がけ」といったタイプであったことがうかがわれます。つらつら思慮した結果が、斉彬やその子息たちが病気になるのは「お由羅の呪いが原因である」と思いこんでいます。

テレビでは「呪い」「呪詛」などと言っても現代の視聴者には通用しませんので、砒素の毒…という科学モドキの想定でしたが、実際はどうだったのでしょうか。薩摩ほどの大藩ですから当然毒見役がいます。その気になれば台所は腹心で固めることもできますし、長期間にわたって毒を混入し続けることは難しいと思います。

砒素と言えば、和歌山の毒カレー事件を思い出します。あの場合は混入した砒素の分量が多かったようで、たくさんの死人が出ましたね。

西郷どんは「呪い」「呪詛」だと思っていますから、神仏に対抗するには神仏に頼ります。

目黒不動尊もさることながら藩邸から近いこともあって芝明神には何度も通ったでしょうね。別の手紙では、増上寺門前の芝明神に「女絶ち」を誓って男子誕生を願ったとあります。

鹿児島の妹婿・市来正之丞への手紙

…略・・・

さて君侯益々ご機嫌よく遊ばされ、恐悦なことに存じています。おとよ(側室)孕まれたことは蓑田(斉彬側近)より細事を伝えることと思いますが、大慶至極です。

駕籠かきのことは自然自滅を招くと思います。神明宮に参詣し、私儀、死を以て男子が誕生になるよう祈り、生涯不犯の誓いを立てましした。 …略・・・

西郷どんが参詣し誓いを立てたのは、芝の神明宮とも芝明神とも呼び、神田明神と並んで江戸っ子の守り神です。この明神社は歌舞伎の演目「め組の喧嘩」で有名です。江戸の火消し「め組」と、境内で興行をしていた相撲取りが大喧嘩になり、火消し・とび職を裁く町奉行所と、相撲部屋を管轄する寺社奉行が絡み、双方の奉行所のメンツが絡んで揉めた挙句に、勘定奉行所までが乗りだしてやっと片付いたという事件です。町人の喧嘩沙汰に三奉行所が乗りだしたというのはこれが最初で最後だったようで、それだけ有名になったのでしょう。

現在は石段の上に神殿が建つだけの小規模の神社ですが、西郷どんが参詣した頃は相撲場所が建てられる程、境内が広かったと思われます。

手紙の中で西郷が「駕籠かき」と言っているのは、国許で久光擁立運動をしている島津豊後守などのことを指します。斉彬は自身への反対派を粛清したり、遠ざけたりといったことをせず、そのままの地位で使っていましたが、西郷などにはそれが気に入らなかったようです。お由羅騒動では、赤山靭負(ゆきえ)などの斉彬派は大勢切腹させられ、大久保正助の父なども遠島になったのに、 斉彬が藩主になって以来、お由羅派は全くお咎めを受けていないからです。

側室に男子が生まれれば、その子が後継者になるので、お由羅・久光の出る幕はなくなる…

そうなるために、自分は生涯、女性と接しないと誓った・・・と言っています。さらには、機会を見て、自分がお由羅を殺そうという意図があったのかもしれません。

橋本左内の西郷評

橋本左内と西郷どんは、共に藩主の名代として、安政2年12月27日に水戸藩士原田八兵衛の屋敷で出会います。品川の遊郭で、偶然出会ったわけではありません。左内は日記に 「薩摩藩士・西郷吉之助に会う、燕(えん)趙(ちょう)悲歌(ひか)の士なり」と、第一印象を記しています。

燕趙悲歌の人とは・・・「時世を憤り、嘆く人」という意味でしょうか。加えて

「西郷はすこぶる君侯(斉彬)に得られる(信頼されている)。

我が藩より斉彬公に伝えたことの総てを聞き知っているようだ」

とも書いています。慶喜擁立についての政治活動に関しては斉彬の意志、信頼を100%受けて走り回っていたようですね。西郷の言うことは「斉彬の発言」と受け取られています。

その意味では、福井藩主・松平春嶽に重用された橋本左内も同様でした。

ですから、西郷も橋本左内のことを

「先輩では藤田東湖に服し、同輩では橋本左内を推す」

と言っています。東湖から攘夷論の影響を受け、左内からは開国論の影響を受けます。

その二つを、混然一体と包み込んでしまったのが西郷どん的「好い加減さ」でしょうね。