敬天愛人 10 小石川・水戸藩邸
文聞亭笑一
いやはや…先週の筋書きには恐れ入りました。徳川(一橋)慶喜が品川の遊郭に遊びに来て、似顔絵を描く絵師になっているとは…暴れん坊将軍・幕末篇ですかねぇ。さらに、水戸藩に使いに行った吉之助が初対面から徳川斉昭、一橋慶喜に面会するとは…驚きでした。
物語です、ドラマ、フィクションですから何をしても良いですが…NHKの大河ドラマ、歴史ドラマと銘打つからには、度を過ぎた「やり過ぎ」はいけませんねぇ。娯楽番組の「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」とは違うと思っているのですが…どうなんでしょうかねぇ。
西郷さんは先輩の大山や有村に連れられて、水戸藩邸に出入りします。ここでの出会いは藤田東湖や戸田忠太夫、武田耕雲斎など、水戸学の権威たちで、政治というよりは・・・歴史学、哲学的な影響を受けます。鹿児島の高校生が、上京していきなり東大の花形研究室の聴講生になったようなものですから、藤田東湖の水戸学・尊王攘夷思想に心酔してしまいます。これが、後々まで西郷さんの行動に影響を及ぼします。ですから、今週辺りはテレビにも藤田東湖が登場してくるかもしれません。
江戸の薩摩屋敷
吉之助が島津斉彬に従って江戸に出て、生活の拠点となったのは薩摩藩の上屋敷です。
これは現在の駅でいえば京浜東北線の田町駅の近くで、その跡地に現在のNECのロケットビルが建っています。77万石の大大名に相応しい広大な敷地ですが、当時の江戸の町割りからすれば江戸城からは最も遠い、町はずれの位置になります。要するに…家康、秀忠の時代においては最も警戒されていた外様大名の証拠のようなもので、江戸市中と言うより品川宿に近い位置です。東海道五十三次でいえば最初の宿場に近い位置になります。更に、中屋敷などは高輪です。大木戸の外、どちらかと言えば江戸の郊外ですね。
ですから遊びに行くのも吉原ではなく品川が近かったのです。
その品川宿も、現在の品川駅の場所ではありません。京浜急行の「北品川」から「青物横丁」の間が東海道品川宿で、現在の品川駅は明治五年に鉄道ができた時には海の中の埋め立て地にありました。ですから品川宿は品川駅の南に位置していて、その北の外れが「北品川」なのです。薩摩藩士の遊興の場所が吉原ではなく、品川だったのはそういう位置関係からです。江戸時代の遊興の場所として格式が高いのは「吉原」…現代人の感覚からすると銀座で飲むイメージ、品川は「川崎・堀之内・ソープランド」と言ったイメージであった…と見たらいいでしょう。
そういう場所に一橋慶喜が遊びに来ていたとは・・・ちょっと考えられませんね。
一橋慶喜は幕府にあってもエリート中のエリートですからねぇ。吉原(銀座)にすら出入りしていたとは思えません。
水戸の3ポイ
島津斉彬と水戸の徳川斉昭とは盟友です。盟友と言うより、斉彬が先輩・斉昭の水戸学に心酔していて、その師である藤田東湖などと親しくしていました。吉之助が使い走りで小石川の水戸屋敷を訪れる機会が多かったのはその為です。
水戸藩は黄門様、水戸光圀の「大日本史」編纂以来、国学と言うか尊王思想の本家です。国家元首は天皇であり、幕府は執行機関である…と言う概念に徹しています。水戸光圀…テレビドラマで助さん、格さんを連れて漫遊する黄門様です。黄門様が全国を漫遊した事実はありませんが、隠居してから水戸藩の領内は、くまなく回っていたようですね。「この紋所が目に入らぬか」という定番の場面は、水戸藩の領内でのできごとのようです。
その水戸藩の気質として「水戸の3ぽい」という言葉があります。
「理屈っぽい」 「怒りっぽい」 「骨っぽい」と言うのがそれです。
別の説では
「怒りっぽい」 「飽きっぽい」 「忘れっぽい」とも言います。
どちらにも共通するのが「怒りっぽい」で、どうやらこれは幕末の斉昭、慶喜親子を念頭に置いた命名のようですねぇ。前者が斉昭への評価で、後者が慶喜への評価のようです。
いずれにせよ、維新での水戸藩は・・・まずは改革派の先駆者でしたが、藩内がまとまらず内部闘争で消耗してしまい、最終的には慶喜が幕府の代表になったことから負け組、賊軍の評価になります。それもあって、言われ放題です。
慶喜を将軍継嗣に擁立する運動
この当時、江戸城内では二大派閥が次期将軍を誰にするかをめぐって、相争っていました。 黒船・・・ペリーが要求してきた「開国」に対する判断、対応もさることながら、次期将軍が誰になるかで政権の姿が大きく変わります。
老中筆頭の阿部正弘(備後・福山藩)は譜代大名ではありますが、海外列強からの圧力に対抗するには外様を含めた大同団結、All Japanが大切と「雄藩連合」による政権強化策を模索します。この中核を担うのが尾張、水戸の御三家と親藩筆頭の越前松平、そして薩摩・島津斉彬、土佐・山内容堂、宇和島・伊達宗城と言った外様です。後に四賢公と言われる面々です。
一方、従来からの伝統通り、政権は譜代大名が担うべきだと考えるのが井伊直弼を筆頭とする勢力で、こちらは次期将軍候補に紀州藩の徳川慶福を立てて水戸勢力・慶喜派に対抗します。
慶喜擁立派の推進役が島津斉彬と越前・松平春嶽で、その使い走りとして活躍するのが西郷吉之助と橋本左内の二人です。
西郷が書いた地元への手紙などを見ると、藤田東湖や水戸斉昭、橋本左内への惚れこみようは異常なほどですが、西郷どんという人はかなり惚れっぽいというか、人や物事に感激してしまうタイプのようで、それがまた相手にとっても魅力だったようですね。
斉彬は慶喜嫌いの大奥の女勢力を懐柔すべく、養女にした篤姫を将軍・家定の御台所として大奥に送りこむ算段をします。薩摩から将軍の御台所を出すのは初めてのことではありません。
11代将軍・家斉の御台所には茂姫を送りこんだ実績もあります。
まぁ、この辺りのことは何年前でしたか…宮崎あおいさんが主役の大河ドラマ「篤姫」がありました。その時の将軍・家定役が真田丸で幸村を演じた俳優でしたね。
今回は西郷どんが主役ですが、今まで西郷を主役にした物語がないのは、西郷さんは主役になりにくいタイプなのでしょう。周りの人たちの影響を受けやすく、言葉も少ないですから、何を考えているか良く分からない所のある人ですからね。