敬天愛人 09 江戸城

文聞亭笑一

いよいよ吉之助が江戸に向かいます。島津斉彬が老中・安倍正弘の要請に応えて予定を早めての江戸出府です。鹿児島から江戸まで45日、百人を越える人数が旅をするだけで膨大な出費ですよね。参勤交代というのは「浪費」の極め付けでした。

前回、昆布輸出による琉球口での貿易のうまみについて説明しました。それが薩摩藩にとって重要な財源であったと説明しましたが、もう一つ、薩摩にとって重要な財源があります。それは長崎口から、オランダを通じてヨーロッパへの「樟脳」の輸出です。樟脳は、字の如く楠から抽出した樹液を元に生産しますが、この生産を行っていたのは日本国内でも薩摩と土佐だけでした。元々は薩摩だけの特産でしたが、江戸中期から土佐が製法を習得して、二大産地になっています。

この樟脳、生産しているのは日本くらいしかなく、ヨーロッパで使われる樟脳の殆どは日本産だったようです。ただ、市場価格については生産側が分かっていませんでしたから、オランダがぼろ儲けをしていたでしょうね。これも一種の薬ですから「薬九層倍」の値付けでしょう。

薩摩のもう一つの特産は沖縄、奄美のサトウキビから作る黒砂糖です。これは大阪、江戸に出荷され、安定財源の一つになっていました。江戸時代の大名家は、この種の特産品を専売にし、外貨(藩以外からの収入)獲得に知恵の限りを絞っていました。

太平の 眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四杯で夜も眠れず

黒船来航を皮肉った戯れ歌として、この歌が良く使われます。上喜撰は上等なお茶のことですが、蒸気船と掛けてあるところがお見事です。上等なお茶を飲むとカフェインの影響で眠れなくなりますが、黒船4隻による威嚇に幕閣が大慌てになっている様子を良く表現していますね。

江戸の町人たちにとっても「黒船」は「怪物」で、このように大きな建造物は見たことがありません。敢えて言えば「増上寺の本堂が海に浮かんでいる」と言った感じで、それが煙を吐いて動くのですから…驚きを通り越して恐怖を覚えるでしょうね。

ペリー艦隊は江戸を混乱させないようにと、浦賀沖に停泊していたのですが、幕府の対応が遅いので品川沖まで出てきてデモンストレーションをします。江戸市民に黒船・蒸気船の能力を見せつけます。北朝鮮が原爆実験をし、ミサイルを飛ばすのと同じです。示威活動・軍事的威嚇ですね。

この威嚇に、江戸の町人たちはあまり恐怖を覚えていなかったらしい・・・というのが我々現代人にとっては驚きでもあり、ペリーにとっても誤算だったかもしれません。外国からの軍事的威嚇に対して鈍感と言うか、「お上が何とかしてくれる」という信頼と言うか、見世物小屋を見る感覚で、花見気分で、品川から三浦方面へと観光客が溢れます。

幕府の主だった者たちはそれほど驚いてはいなかったと思います。

黒船、蒸気船は長崎にも現れていましたから、長崎奉行所や部下を通じて知っていたはずです。

「来るな・・・って言っておいたのに、来ちまった」という感じだったでしょうね。

タテマエ派は「攘夷」を叫びます。鎖国令違反を厳しく罰すべきだと主張します。

ホンネ派は「喧嘩したらやばい」と、互いの「建前」を中和する道を探ります。

この時点で、後の「開国派」は皆無でした。殆どの日本人は「攘夷派」です。ましてや孝明天皇をはじめとする京の公家たちは、西欧人を「鬼」として忌み嫌っていました。

西郷どん上京の道

島津藩の参勤交代行列ですが、九州から中国、近畿、そして東海道五十三次です。すべて徒歩ですから大変ですね。瀬戸内では船便でショートカットすることもありますが、基本的には徒歩の行列です。1月21日に鹿児島を発ち、3月6日に江戸に着いています。

鹿児島を出発して先ずは熊本、ここは細川50万石の城下です。薩摩77万石の見栄を張らなくてはいけません。さらに進むと福岡黒田藩50万石の城下です。ここでも、「格上」として振る舞わなくてはなりません。経費削減などしているゆとりはありません。こういうところが、江戸期の大名たちの悩みの種で、碌高、石高に応じて見栄を張らなくてはならないのです。薩摩藩は北陸の前田・加賀百万石に次いで2番目の大藩ですからねぇ、同情します。

薩摩の大名行列は、基本的に陸路です。海路をとるのは関門海峡と、桑名・熱田間だけです。

この間に、斉彬から吉之助に幾つかの司令が飛んでいたと思われます。

熊本藩では家老に会っています。後に攘夷派で活躍する宮部鼎蔵などとも会っていたようですね。斉彬の司令で会う人物の殆どが維新史のヒーローと言うか、名の売れた者たちばかりですから、これは斉彬のメッセンジャーとして相当信頼されていたと見るべきでしょう。江戸に出てからも水戸藩の藤田東湖などとも接触を重ねます。こういう使い方は「郡奉行所書き役助」ではなく、明らかに側小姓・秘書官としての扱いです。斉彬としては、西郷吉之助を試しながらの45日間だったのでしょう。

内憂 外患

幕府にとって頭の痛い問題は、浦賀に現れた黒船以上に、将軍後継者の問題でした。12代・家慶が亡くなって家定が13代将軍についてはいますが、家定は現代風に言うと「発達障害」なのです。健常者とは一味違う、独特の感覚の持ち主です。難しい問題の決裁を求めるのには頼りないというか、決裁を求めに行く気にならぬタイプでした。生理的にも病弱のようですから後継者の準備もしておかなくてはなりません。

安倍正弘以下、幕閣の中心人物たちは「13代家定の自立」「14代に一橋慶喜を」という方向で根回し運動を加速させます。島津斉彬もその運動の主役の一人です。

一橋慶喜擁立派の主だった顔ぶれは以下の通りです。純粋な尊王攘夷派ですね。

水戸藩  徳川斉昭   藤田東湖、武田耕雲斎など

越前藩  松平春嶽  橋本左内など

薩摩藩  島津斉彬  (西郷吉之助)

土佐藩  山内容堂

宇和島藩 伊達宗城

この運動が、思ったより勢いが出なかったのは、やはり殿様が中心だったからでしょう。どこかに甘さが出ます。行動力に欠けます。

よく言われることですが、改革の推進者となるのは「余所者、若者、バカ者」だと言われます。そういうバカ者たち、若者たちが歴史の表舞台に登場してくるには、まだ十年早い段階です。

殿様や、学者が、理屈をひねくっているのが安政元年頃の江戸城内でした。

薩摩の若者たちが「議を言うな」と猪突猛進の活動を始めるのにはエネルギーが足りませんね。西郷が江戸に到着したのは、攘夷と開国の議論が沸騰する前夜でした。