敬天愛人 05 斉彬お国入り

文聞亭笑一

いやぁ~面白い展開ですねぇ。家督相続の親子対決にピストルを使ったルシアン・ルーレットの賭けをするなどは「アッと驚く為五郎」の演出です。しかも、ピストルを手にしての迫真の演技、渡辺謙にしても、鹿賀丈二にしても、さすがでした。

それに引きかえ…などと、ルミ子さんを批判しては気の毒です。

幕府からの「藩主交代圧力」があって、斉興が詰め腹を切らされる形で引退した事は間違いありません。幕府の主流派には「一橋慶喜を次期将軍に」という流れがあって、それを支える有力大名の一人として、島津斉彬に薩摩藩の実権を任せようという外圧を掛けていたことは事実です。老中筆頭・阿部正弘、親藩水戸家の隠居・徳川斉昭、越前の松平春嶽などがその先頭に立ちます。土佐藩主・山内容堂や宇和島藩主・伊達宗城なども主流派の仲間です。

彼らにとって最大の課題は、ごローニン事件などのロシアを始め、中国でアヘン戦争を仕掛けているイギリス、躍進著しいアメリカなど、近海に出没する西欧諸外国への対応でした。

この外圧に対して「国力増強」「鎖国維持・攘夷」というのが幕府の基本方針です。松前藩に任せっぱなしにしていた蝦夷地(北海道)に関心が向き、間宮林蔵、近藤重蔵、伊能忠敬などを派遣したのもこの時期です。司馬遼の「菜の花の沖」の舞台です。

更には将軍・家慶の病気のことがあります。次期将軍候補である嫡子・家定の精神障害、そのまた後継者選びと世継ぎ問題も抱えます。

そのためには、大封の有力大名を組織化し、一丸となっての沿岸警備が不可欠です。ましてや、ペリー艦隊が沖縄に現れ、オランダを経由した来航予告などの噂があります。その沖縄を管理するのが薩摩・島津藩ですから、何としてでも薩摩藩を身内に取りこんでおかなくてはなりません。

そういう政治的環境の中で、島津斉興の頑迷さは厄介者だったでしょうね。

斉彬の改革

斉彬がお国入りしたのは斉興引退が実現してから半年ほど後のことですが、斉彬は就任早々に反射炉建設へ行動を開始しています。肥前・鍋島藩から設計図を取り寄せ、藩内にてそれを実現すべく、調査、準備活動を開始しています。

肥前藩は、なぜか維新劇の表に出ませんが、密貿易を始めとした財政の健全化を果たし、異国技術の取り込みに熱心でした。西欧技術の取りこみでは西国大名の中でも最先端を行っていました。維新成立後に大隈重信、前島密を始め技術系のトップの座を握り、薩長土肥と言われる明治政府の中核を担う素地はこの頃に出来上がっていました。維新の戦略兵器として知られるアームストロング砲も、持っていたのは佐賀藩だけでした。

それはさておき、斉彬は内政改革も進めます。吉之助が書いた意見書がどこまで反映されたかはわかりませんが、汚職追放は勿論、米価の安い時に米を藩が引き取るという新制度を発足させたりもしています。

そして、いよいよ反射炉、溶鉱炉、ガラス工場など近代工業の一大工業団地建設に着手します。幕末から明治にかけて鹿児島が「近代工業発祥の地」と言われるほどの大事業を始めます。斉興や国許一派が心配していた「蘭癖」「浪費」の始まりですが、なぜか藩財政はそれほど枯渇していません。財源は密貿易ですね。調所がやった「隠れてコソコソ」の貿易ではなく、「琉球を欧米の侵略から守る」と大義名分を掲げての公然たる密貿易です。言葉を変えれば、幕府と癒着した闇貿易です。

幕府も背に腹は代えられません。薩摩など、信頼できる雄藩に国土防衛の一翼を担ってもらわなくては、幕府だけでは西欧の圧力に抗しきれないのです。黙認ですね。

吉之助の嫁取り

嘉永五年という年は吉之助にとって、かつてないほど家族、家庭のことに悩まされる年になりました。冠婚葬祭のオンパレードです。金がいくらあっても足りません。

まず、吉之助が結婚します。相手は伊集院家の須賀という娘です。伊集院家も下級藩士の家ですが、西郷家よりはゆとりがあって、父はここからも借金をしていました。 だから…というわけでもないでしょうが、父のたっての願いとあれば断れません。また、須賀の弟は郷中の仲間でもあります。

それに、妹のお琴には相思相愛の相手がいたのですが、吉之助が嫁をもらってくれないと家事を切回す者がいなくなり、幼い兄弟の面倒を見る者がいなくなります。というのも、母の満佐が労咳を発症して、疲れやすくなっていたこともありました。仕事人間の吉之助は、そのことに全く気付いていません。

まぁ、吉之助を責められませんね。我々とて現役時代は家族の健康のことなどにかかわっている暇もなく、仕事一途というか、糸の切れた凧のようなものでした。

(但し、これは原作がそうなっているということで、西郷年表では嘉永7年結婚です)

西郷家の厄年

この年は西郷家に不幸が続きます。吉之助の嫁取り、お琴の嫁入りまでは良かったのですが、7月に祖父が亡くなります。葬儀を済ませたと思ったら、9月に父が亡くなります。まさか…と思っているうちに11月には母が亡くなってしまいます。一年に3回の葬式ですから出費だけでも大変ですし、生活環境が一転してしまいます。

嫁に来たばかりの須賀さんも大変だったと思います。嫁入り道具に持ってきた物は、その殆どが質草に消えてしまいました。しかも、手のかかる幼い末の弟もいます。母親代わりをしなくてはなりません。

糟糠の妻・・・という言葉がありますが、まさに それでした。

吉之助上京

新藩主として斉彬がお国入りしますが、吉之助の役割は変わりません。「郡方書き役助」のままです。藩主への目通りなど雲の上の話で、接点すらありません。ただ、この頃から、吉之助はせっせと目安箱に意見書を提出するようになります。テレビでは藩主になる前から提出していますが、実際はお国入りしてからだったようです。藩主が交代したことで、役所の上役も交代し、意見書を出す環境が好転したのでしょう。目安箱に投書するのは、一種の「内部告発」ですからねぇ。上役は困ります。

嘉永6年6月、ペリーが突然、浦賀にやってきます。江戸は大騒ぎです。

翌年の正月、斉彬が江戸に出府する時期になり、吉之助はその随行者の一人に選ばれました。これは、とんでもない大抜擢で、下加治屋町はお祭り騒ぎです。が、困ったのはそれなりの衣装がないことでした。そのドタバタぶりが、今週の見せ場でしょうか。

ともかく、吉之助が与えられたのは行列の中でも「籠脇」という藩主の身辺警護、SPです。その抜擢ぶりは異例です。やはり斉彬が吉之助の意見書を読んでいて、江戸までの旅行中に「面接をしてみよう」という意図があったのでしょう。さもないと、江戸に着いてからすぐに、「庭役」という私設秘書のような役には就かせません。鹿児島から江戸までの道中40日間、吉之助の態度、言動などをじっくり観察していたのでしょう。

敬天愛人 余話1

ドラマの流れの中で、話が先に飛び過ぎたために紹介できなかったことを、後付で書きます。

お由羅事件が幕府に漏れたきっかけ

お由羅事件は斉興の後継者をめぐっての薩摩藩内の内紛ですが、これに幕府が介入し「斉興隠居、斉彬継承」となった顛末を書いておきます。

「お由羅事件」という名称は、明治になってから大阪で演じられ、好評を隠した演劇や講談でつけられた名称ですが、当時の鹿児島では「嘉永朋党事件」と呼ばれていました。朋党・・・つまり「徒党を組んで藩主に逆らった事件」という意味です。

この事件では斉彬派の町奉行・近藤隆左衛門、赤山靭負など13人が切腹、大久保治左ヱ門など17人が遠島、40名近い者たちが謹慎処分を受けています。

江戸にいる斉彬にしても藩の内政上のことですから、うかつに幕閣に相談するわけにもいきません。それに、幕府が密偵を送りこんで実情を調査しようにも、薩摩の防諜網は他藩より強固、周到で隠密自身が身の危険にさらされます。朋党事件のことはすべて闇に葬られてしまいます。

ところが…未決囚として牢に繋がれていた井上経徳、木村時澄の二人が牢を破り、福岡藩主・黒田斎愽の助けを求めて脱藩し、黒田家に救助を要請します。

なぜ黒田家か?? 実は黒田斎愽は薩摩先々代藩主・島津重豪の息子で、黒田家に養子に行った人でした。ですから、それに着き従って島津から黒田に移籍した元薩摩藩士が何人かいたのです。その中に井上、木村の縁戚か、元の同僚がいたのかもしれません。

ともかく…筑前福岡・黒田藩から幕府に報告が上がり、『引退勧告』になりました。

「薩摩の大提灯、肥後の腰提灯」といわれる『薩摩人気質』

肥後(熊本)と薩摩(鹿児島)は隣同士の県ですが、県民性はかなり違います。

片や鎌倉以来の島津家の支配、片や支配者が頻繁に変わってきた、という違いはありますが、それ以前に古代から隼人と呼ばれた文化と、熊襲と呼ばれた文化の違いがあります。卑弥呼の時代から、九州南部のこの民族は「まつろわぬもの」で、ヤマト政権に対しては敵対勢力でした。

薩摩の大提灯とは…一つの目標に、団結して邁進する県民性を言います。

一方の肥後の腰提灯とは…銘々が勝手バラバラで独立独歩の状態を言います。古代から中央政権は肥後の治世に悩まされ、数々の戦を繰り返してきました。収まりがつかないのです。日本武尊の神話、卑弥呼の邪馬台国との戦い、源平、南北朝、そして佐々成政の事件を経て、ようやく加藤清正で落ち着きました。「モッコス」なんですねぇ。

それに引き換え、薩摩は「ノリの良さ」が特徴です。目標が定まれば、一丸となって「イケイケ、ドンドン」まっしぐらです。戦国期の九州制覇、明治維新の官軍の主力としての働きなどは面目躍如です。

「意地は熊本、気は薩摩」という言葉もあります。こちらの方が分かりやすいかもしれません。

ついでに、「水戸の3ぽい」も紹介しておきます。

西郷どんは江戸に出てから水戸藩にせっせと使いに行き、徳川斉昭、藤田東湖、武田耕雲斎などと交わりますが、水戸は水戸で、癖があります。

「理屈っぽい、怒りっぽい、骨っぽい」これを「水戸の三ポイ」と言います。

茶化して「怒りっぽい、飽きっぽい、忘れっぽい」などとも言います。

成績が安定しない稀勢の里、高安?? 茨城県出身でしたねぇ。「何ぽい」のでしょうか。