敬天愛人 04 逃散、脱藩

文聞亭笑一

西郷どんの、若い日の物語が進んでいます。

斉彬派の「密輸密告」に端を発し、調所笑左衛門の処分、幕府から藩主斉興への引退勧告、そして、この処置に腹を立てた斉興の逆襲・・・いわゆるお由羅騒動へと繋がっていきました。

薩摩藩に限らず全国の大名家では、この種のお家騒動が頻繁に起きていました。

大概が、跡目争い、相続問題です。それも「江戸派Vs国許派」という構図も一緒です。

幕府創設の頃はそれほど起きなかった事件ですが、時代が進むにつれて頻発します。

原因は役職の世襲制ですね。江戸詰めの者は親子代々江戸暮らしになります。国許の者は参勤交代に随行して江戸に出府することもありますが、出張、出向という扱いですから家族は国許に置いたままです。生活の本拠地までは移しません。

江戸には幕府への人質として正室と嫡子を留め置くことが義務化されていました。

ですから、藩主になる前に島津斉彬が薩摩にいて、西郷たちと出会ったということはあり得ません。

物語を面白くし、登場人物を紹介するための虚構ですね。

まぁ、目くじらを立てるほどの問題ではないでしょう。

薩摩藩が後継者問題で斉彬派と、久光派に分かれてしまった原因は、斉彬の革新性にありました。斉彬は情報の中心地・江戸にいます。しかも、幕閣や主要な進歩的大名との付き合いが多く、ペリーの黒船に端を発した攘夷騒ぎの真っただ中にいます。

当然のことながら、薩摩のことより日本国・世界の方に意識が向き、中央政府の一員としての立場で物を考えます。日本社会の遅れ、とりわけ国土防衛の脆弱さに関心が向きます。

「大砲を作らねばならぬ」

「その為には製鉄のための反射炉を作らなくてはならぬ」

「もはや火縄銃の時代ではない、軍備を近代化せねばならぬ」

となれば、防衛予算に積極投資の経営姿勢になり、西洋の新技術を導入するために高価な洋書や、それを習得するための人材投資も必要になります。

これを、斉興、調所を筆頭とする国許派は「蘭癖」「浪費」とみました。蘭癖とは「オランダかぶれ」という意味です。鎖国ですから当時の洋書はオランダからしか入手できません。国許派は「斉彬が家督を継げば、薩摩藩は財政破たんする」と見ていました。

従って、斉彬を廃嫡し、薩摩育ちの久光を後継者にしたい、という思惑がありました。「国際派と薩摩派」の争いです。結果を知っている後世の我々は、国許派を「遅れている」と批判しますが、黒船騒ぎは江戸市民と東海道筋の一部だけが知っていることで、鹿児島辺りには緊迫感を持って伝わっていなかったのです。それよりも財政の方が大切です。

「それだけ藩の内政重視なら、なぜ農民たちが困窮の底にあったのか」

借金地獄のトラウマでしょうね。「何があっても安泰なように蓄財する」…このことに徹していました。蓄財というのは限りがありません。「多ければ多いほど良い」と言う感覚で、そのことだけが目的になります。

企業の内部留保も似た性格ですねぇ。必要以上に貯め過ぎです。

地域社会の会計も同じです。年度の繰越金の多さを「金持ちだ」と威張っています。

中村半次郎

こんな場面に半次郎が出てくるとは・・・意外でした。これも顔見せ興行でしょうね。

中村半次郎は京の街を恐怖に陥れたテロリストで「人斬り半次郎」と呼ばれた剣の名手です。

維新後は桐野利昭と名乗り、西南戦争を引き起こした主要人物です。

「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時、突如響き渡る剣戟の響き…」トーキーのない頃の、活弁弁士の名文句ですが、鞍馬天狗や新撰組共々「人斬り(暗殺)」が横行します。

やや先走りますが、京で暗殺が横行した時代に「4大・人斬り」という人たちが現れます。

「テロリスト4人衆」と言った方が分かりやすいですね。挙げておきます。

田中新兵衛(薩摩) 公家侍・島田正辰 暗殺事件

川上彦斎 (肥後) 佐久間象山 暗殺事件

岡田以蔵 (土佐) 大事件になったものは少ないが、暗殺件数は数多

中村半次郎(薩摩) 西郷の指示に依る政敵多数

今回、半次郎を登場させたのは、逃散、脱藩が頻発したので、その説明のためでしょう。

逃散とは百姓が他藩に逃げ出すこと

脱藩とは武士が他藩に逃げだすこと

半次郎の一家が脱藩を企てた・・・という筋書きです。

半次郎一家がそれくらい困っていたというのは事実で、その他にも、そのような家族がたくさんいたということです。

脱藩も、逃散も重罪です。なぜでしょうか。

機密防止の意味もありますが、いずれの行為も「管理不行き届き」と幕府に咎められ、減封、お家取潰しなどの罪に問われるからです。「百姓一揆」などもそうですね。

徳川幕府は創業者家康以来、外様大名家を取り潰すことに躍起になっていました。これは徳川家を守るという意味もありますが、譜代大名や旗本たちのヒガミ、ヤッカミのなせる業ではなかったかと思います。家康は外様に大封を与える代わりに遠国に置きます。その分、幕府創業に功のあった譜代、旗本は小封、小碌になります。酒井、本多などでも10万石止まりでした。

とりわけ島津は関が原の賊軍です。井伊家に至っては藩祖・直政を鉄砲傷で死に至らしめた憎っくき仇です。何とか取潰したい、減封したい相手です。隠密も多数送りこんでいます。

この隠密を防ぐために、薩摩弁は、より薩摩らしく難解にしたとも言われます。私が聞いたのは薬缶(ヤカン)のことを、わざと「ヤクァン」と発音させ、余所者を見分けたという話ですが、それ以外にも数多くの防諜システムが工夫されていたようです。

しかし、こういうことは下級武士で、若い西郷どんは知りません。

「これが普通の日本語だ。当たり前だ」と疑問すら感じていなかったでしょうね。

方言というのはそういうもので、テレビや新聞などがないとそのまま通用していきます。

後に明治政府が教育に力を入れたのは「標準語化」です。

「です」と書いて・・・思いだしました。標準語は江戸弁を中心に制定しましたが、接尾語は日本全国で千差万別でした。江戸弁の語尾が気に入らなかったようで、長州弁の「です」「ます」が標準語になっています。

ここまで書いていたら雪が積もりだしました。やることがないのでもう少し続けます(笑)

言志四録

最初の稿で、西郷どんが愛読していたのは「言志四録である」と書きました。

赤山靭負の郷中教育や、藩校でも教科書として使われていたのは「言志四録」です。

西郷どんはこの教科書の中から、気に入った章を101か条書き写し、座右の銘として持ち歩いていたと言われます。西郷さんを知る上では欠かせない資料ですが、どういう書物でしょうか。

いわゆる儒学書です。筆者は佐藤一斎。美濃・岩村藩の家老であり、幕府学問所〔昌平黌〕の総長です。今でいえば東京大学の学長といった感じの人ですね。西郷どんが薩摩で勉強している当時はまだ現役で、真田藩の佐久間象山、肥後藩の横井小楠などもその門下で、講義を受けています。その佐久間の門下生に、勝海舟や吉田松陰などの、維新を推進した主役たちがいますから、当時の志士たちはこぞってこの教えに傾倒していたとも言えます。

言志四録というのは、朱子学、陽明学などの儒学の素養をベースに、佐藤一斎が「論語」を自分なりにかみ砕き、当時としては分かりやすい日本語にして「人として生きる道」を説いたものです。

「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耄録」の4篇から成り立ちます。

皆さんも耳にしたと思われる言葉も数々ありますが、例えば

「人は最もまさに口を慎(つつし)むべし。口の職は二用を兼ねる。

言語を出し飲食を納(い)れる。言語を慎まざれば、以て禍(わざわい)を招くに足り、飲食を慎まざれば、以て病を致すに足る。諺(ことわざ)に言う、禍は口より出で、病は口より入ると」 

などがあります。これは「録189」の一文です。

こんなことを引用したら「文聞亭も筆を慎むべし」となりますね(笑)

西郷どんが、最も心酔した文章は「知行合一」を説いた部分ではないでしょうか。

「心の官(役割)は即ち思うなり。思うの字は只これ、工夫の字のみ。

思えば即ちいよいよ精明に、いよいよ篤実なり。

その篤実なるよりしてこれを行と謂い、その精明なるよりしてこれを知と謂う。

知行は一の思うの字に帰す」(後28)

ここでいう「思う」は、現代語でいえば「考える」でしょうね。思うだけならだれでもできますし、 簡単なことですが、「どうしたら解決できるか」原因を探し出し、代案を導きだすのは至難のことです。

「原発はない方が良い」と思う人は多いのですが「代替えエネルギーは?」「廃炉の方法は?」「核のゴミは?」などを考える人はほとんどいません。他人任せです。むしろ、「思っただけ」「言ってみただけ」というのが現代人の通弊で、その最たるものがマスコミ雀でしょう。ピーチク、パーチク賑やかです。

知行合一を日本語で言うと「考えよ、行動せよ」となりますが、英語で言うとThinkの一文字です。

これを社是にしているアメリカの会社がありましたねぇ。

管理職の机の上にはThinkの文字を掘り込んだ文鎮が置いてありました。

分かりにくい人と言われている「西郷どん」の人柄を理解しようと、言志四録を読み返していますが、 一文、一文が結構・・・胸に突き刺さります(笑)

今更反省しても仕方ないですが……、しないよりはマシかとも思います。

この文章は月曜日に書いています。

この分ではかなり積もりそうですねぇ。明日の予定はキャンセルか? 新年会、飲み会です(笑)