敬天愛人 14 政変
文聞亭笑一
「最近のNHK、なんかおかしいぞ」そんな声が聞こえ始めています。先週は「西郷どん」の放映がなく、主役の鈴木翔平と渡辺謙の芸能界裏話のような番組が突然割りこんできて、私などはあっけに取られて執筆意欲を失ってしまいました。どうやら、そう思った人が多いらしく
「ナンダコリャ!」というレスがたくさん届きました。
長年揉めていた「NHK受信料訴訟」に最高裁の判決が出て、「すべからく国民はNHKの受信料を支払う義務がある」ということになりました。
「NHKなんか見ていないから受信料は払わない」という意見は「ダメ」ということが確定しました。テレビを買ったら…受信料を払わなくてはいけないのです。大多数の視聴者は従来から「そういうものだ」と信じて…諦めて…支払っていますから実害はありませんが、NHKは鬼の首でも獲った気分になったのでしょうか。横柄というか、やりたい放題ですねぇ。民放と変わらず、おふざけモードの番組を垂れ流し、公共放送としての品位を捨てて、視聴率争いに憂き身を費やしています。自局の番組のコマーシャルが多すぎます。
民放は企業からの広告宣伝料で成り立っていますから、企業のCMを流さないことには経営が成り立ちません。企業は視聴率の高い番組には競って高額の費用を支払いますが、売れない番組にはお金を出しません。当たり前の話です。
だからこそ、売れなくても、視聴率が低くても大事な情報を流す公共放送、NHKの存在意義があって、地上波の二局、BSの二局と4局もの電波帯域を振り当てています。その他にも4K、8Kといった先端技術開発には国費を割り当てています。
モリカケや日報隠匿など官僚連中の堕落も問題ですが、マスコミ業界の堕落も問題にすべきでしょうねぇ。しかし問題にしても、決して放送しませんね。無視するか報道統制と反発しますね。
オット…別冊の「たわごと」的になってしまいました(笑)
「西郷どん」の京都工作
篤姫の輿入れに関するあたりはササッと流して、舞台は一気に京都政局に移りました。
篤姫の輿入れは、それだけで大事件でした。・・・が、そこらあたりの事情は何年か前の大河ドラマ「篤姫」で放映済み…と手抜きをしたのでしょうが、もう少し丁寧に「大奥」という魑魅魍魎の世界を、復習的描写をしてほしかったですねぇ。将軍家定の母親役が泉ピン子ですから、前回とは違う大奥を期待していました。
ともかく、西郷は京都政局に参加します。
お公家様の世界と、薩摩の田舎っぺぇの代表のような吉之助、…この掛け合いが見所です。
朝廷と大奥、どちらも保守本流というか、前例主義の総本山です。改革派の島津斉彬とは水と油のような関係ですが、この二つの流れがなぜ手を握るのか・・・この辺りが日本史的には大いに興味のあるところです。
外圧・・・黒船ですね。前代未聞という事態に、前例主義の保守勢力はうろたえます。
突然やってきて、武力を背景に開国を迫る…なんとも無礼千万です。これに対して礼儀作法の総本山・京都朝廷はなすすべを知りません。外国通の島津斉彬を頼るしかなかったのでしょう。琉球を通じて海外と窓口を開き、かつ、朝廷と近しい関係にあったのは薩摩だけです。
僧・月照
清水寺・成就院の住職ですが、この時期近衛家と親交があり、将軍家の継嗣問題に参画するようになっていました。島津家と関係があったわけではありません。生まれは四国の讃岐です。
この後のストーリで西郷とは生死を共にする関係になっていきますが、西郷は島津斉彬の分身、月照は京都公家勢力、さらに言えば孝明天皇の名代的な立場で協力していく関係になります。
清水寺と言えば清水坂、三年坂、清水の舞台と、誰でも知らぬ人のないほどの観光地ですが、寺域は実に広く、京都の町に面した部分だけではなく、その裏側、山科側も清水寺の敷地です。京都に単身赴任していた時代に、暇を持て余しては色鉛筆とスケッチブックを持って、清水寺に行きました。舞台のある観光地では、恥ずかしくてスケッチブックなど拡げられません。人のいないところを探して山に入ります。
観光ルートを外れて、どんどん奥に入ると京都市内とは反対側の山科の街並みが見えるところに出ます。そこにひっそりと建つ清閑寺という小さなお寺があります。何の変哲もない寺ですが、そこに「西郷・月照会合の地」という石碑を見つけて、驚いた記憶があります。
確かに…ここならば誰にも見つかることなく密談ができたであろう…と納得しました。近くには高倉天皇の御陵もありますが、現代でもほとんど人の寄り付かない場所です。へたくそな絵を描くには邪魔者が現れませんから最高の場所でしたが、夕方になると・・・何となく怨霊に襲われるような寒気がしてきました(笑)
月照は政治的に相当なやり手だったようですね。島津斉彬と月照の使い走りとして京都市中を駆け回りながら、西郷の政治的感覚が磨かれていったのでしょう。西郷の政治的態度は「理」ではありません。徹底して「情」です。
安倍正弘の死
徳川幕府にとって当座の政治課題は黒船対策ではなく「将軍継嗣問題」でした。この辺りが・・・現代も似たようなもので、北朝鮮の核問題よりも、「モリカケ」の方が重大事件になっています。米中貿易戦争よりも情報隠蔽ですね。
徳川幕府の主流派は譜代連合です。譜代大名とは三河以来の徳川家臣団で、酒井、石川、本多、榊原、井伊、大久保などで「大きな領地は与えない代わりに、国政を任せる」という家康以来の伝統のもとに250年間、政治の中枢を担ってきた集団です。
それに対して、黒船来航以来、発言力を増してきたのが水戸の斉昭、尾張の家慶、越前の春嶽などの親藩と外様連合です。親藩というのは徳川一族、外様の代表格は薩摩の島津、土佐の山内、宇和島の伊達ですね。
この二つの勢力のバランスを保ちつつ、慶喜擁立に動いていたのが老中筆頭(首相)の安倍正弘でした。安倍は譜代大名の一員で、備後・福山10万石の当主、代々西の外様、浅野と毛利を睨んできた家柄です。譜代の安倍が親藩外様連合と歩調を合わせていますから、井伊直弼を盟主とする譜代組も目立った動きはできませんでした。
安倍の死によって、譜代組の反撃が始まります。「将軍後継者には紀州の徳川慶福を」と、大奥を動かします。さらには大老職を手に入れてしまいます。「老中」というのは、数名の老中による集団指導体制で、そのリーダが「筆頭」です。一方、大老は大統領的・独裁権限を持ちます。
吉之助の立つ、天と地がひっくり返ります。