敬天愛人 13 薩摩芋(サツマイモ)

文聞亭笑一

ようやく…安政大地震の場面になりました。

「敬天愛人11」で紹介しました通り、この前年から日本列島は大揺れに揺れ、日本全国で地震被害に遭わなかったところがないというほどの揺れ方です。これほど集中的に地震が起きたのは、記録のある限り、長い歴史の中でこの時しかありません。

これと同じことが起きるかもしれない…と云うのが、東海大地震の想定で、既に言われ始めてから30年近く経過しています。地球の動き、地殻変動は百年、千年の時間単位で動きますから、三十年程度は誤差の範囲でしょう。「科学者は何をしているのか!」「オオカミ少年ではないか」などと文句を言っても始まりませんね。いつ来るかわからないから、地震は怖いのです。

私の仲間で、このシリーズの読者の一人が名古屋事業所の危機管理の責任者をしていましたが、東海地震対策で神経をすり減らしていたのは20年近く前の話です。今や昔……と、マスコミは全く話題にしませんが「災害は忘れた頃にやってくる」と言います。ここまで起きませんでしたから、できれば…、発生は私がこの世におさらばした後にしてほしいものです。

さて、薩摩藩の江戸屋敷は三カ所です。

三田の上屋敷…藩主が居住します。近くには田町の蔵屋敷など関連施設が数多あります。

高輪の中屋敷…幕末当時は先代の斉興が住んでいました。

渋谷の下屋敷…普段はあまり使われていません、斉彬はここに疎開します。

地震で一番被害が大きかったのが、島津の江戸の拠点・上屋敷です。それは、家康が入府前の江戸の地図を見れば自明のことですが、三田の辺りは元来が海です。「日比谷入江」と言われる湾の入り口に当たります。しかも品川から伸びてきた砂州の延長上で、軟弱な地盤の上に、更に埋め立てをして出来た土地です。直下型の地震が来たら、液状化を含めて土台が崩壊します。

一方、高輪の中屋敷は強固な岩盤の上にあります。現在の高輪プリンスホテルが建つ位置ですが、こちらはあまり被害を受けていません。

地震被害の後、本来なら高輪の中屋敷に移転して、江戸城との距離を保ちたいところですが、斉彬は中屋敷にいる父・斉興に遠慮して、渋谷の下屋敷に避難します。山手線を前提に、東京の地理を考える我々現代人は「品川(高輪)も渋谷も大差ない」と思いますが、山手線のない幕末ではかなりな距離感になります。さらに、東京23区の地形というのはリアス式海岸なのです。

縄文期(6000年前)には「縄文海進」と言って、現在よりも海水面が10m近く高かったのですが、山手線の内側というのは丘陵と谷の入り組んだ地形です。目黒川、渋谷川、神田川、日本橋川・・・皆、入江でした。渋谷、四谷、市谷…谷の地名が数多く残ります。また、東京には「坂」が多いですね。多いはずです。丘陵地帯が海に伸びた地形なのです。

ともかく…この地震は、低湿地帯を埋め立てた街に大被害をもたらしました。薩摩屋敷のあった三田界隈などは影響の小さかった方で、上野から東、隅田川、荒川、江戸川(旧・利根川)の沖積平野の辺りは壊滅状態でした。倒壊家屋を火災が襲いますから、神戸震災の時の長田地区のような惨状だったと思われます。

西郷どん、嫁入り道具の調達

この地震で、篤姫の嫁入り道具が全滅してしまいました。

箪笥(たんす)をはじめとする調度品はもとより、衣装類も被害を受け、ほとんどすべての道具を新調せざるを得なくなりました。婚儀の日取りは決定していますから時間の余裕はありませんし、道具が理由で日取りを延ばすなどと言ったことはできません。

西郷が中心となって、再調達に向け商人との掛け合いです。今週は、この辺りのエピソードでしょうか。西郷の素朴というか、朴訥(ぼくとつ)というか、真っ直ぐな姿勢が商人たちを動かします。

指物師、呉服屋など町人の中に入りこんでの掛け合いをどう描くか、面白そうです。

ここらは・・・テレビの演出を楽しみたいところです。

薩摩芋(サツマイモ)

「西郷どん」を筆頭に、朴訥で不器用な薩摩の武士のことを「芋侍」などと呼びます。

それだけ、「薩摩」と「芋」の関係が濃厚だということで、薩摩と言えば芋、芋と言えば薩摩という関係が定着しているということでしょう。こうやってキーボードを叩きながら、私の机の脇には薩摩の芋焼酎の湯割りが置いてあります。言葉に詰まるとチビリ、一文章書いてはチビリ、私にとって焼酎と言えば、ヤッパリ薩摩の芋焼酎です。

その薩摩芋ですが、日本に渡来したのは意外に新しい作物ですねぇ。

1605年に中国から琉球に芋の種が渡っています。これは「唐芋」と呼ばれました。「中国の芋」という意味ですね。

1700年にこの唐芋が沖縄から、種子島に渡り、そして薩摩にと紹介されます。

沖縄、種子島ではあまり良い出来ではなかったのですが、薩摩に渡ってから、薩摩特有のシラス台地に合い、食糧難を救う作物として一気に植え付けが広がりました。

薩摩では「唐芋」と呼びますが、鹿児島以外の人にとっては薩摩の芋で「薩摩芋」です。

芋と言えば現代人はジャガイモを想像しますが、ジャガイモが日本に伝わったのはもっと新しく、明治に入ってから栽培が広がっています。ペルー原産のジャガ芋がヨーロッパに伝わり、それが日本に紹介されたのが18世紀で、栽培が広がったのは明治の北海道開拓使の頃からですから、かなり新しい作物ですね。ジャガタラ芋、馬鈴薯などという呼び名もそのことを表しています。江戸期に芋と言えば里芋しかなく、そう考えると「西郷どん」の時代の食文化は、材料的にかなり貧しかったとも言えます。お雑煮の芋も里芋ですよね。

里…とは日本古来の・・・という意味かもしれません。

薩摩芋が全国に広がったのは1735年に8代将軍・家光が青木昆陽に命じて栽培を奨励して以来です。これが、関東ローム層の地質に合って武蔵の国に栽培が広がり、1800年ころには「焼きいも」という調理方法が人気となり、埼玉県・入間産の薩摩芋が、江戸で焼き芋ブームを引き起こしました。これは江戸にとどまらず、全国に広がり、大阪では

「とかく女の好む物、芝居、蒟蒻(こんにゃく)、芋、タコ、南京(なんきん)」などともてはやされます。

南京というのは南瓜(カボチャ)のことで、これまた新しい作物です。

そうやって並べて見ると・・・私たちが現在食べている食品、特に野菜類は明治以降に入ってきた物ばかりですねぇ。カタカナ名ばかりです。