敬天愛人 26 東山三十六峰
文聞亭笑一
西郷どんが沖永良部島でのんびりとした時間を過ごしている間にも、日本の政局はめまぐるしく変化していました。先週号で年表を書いてみましたが、あれとてほんの一部です。
薩摩で何があったのか
長州で何があったのか
江戸や横浜の開港地で何が起きていたのか
そして、この時期の政治の中心は京都です。孝明天皇の「想い」を利用して、幾つもの政治集団が勝手気ままに「勅」をばら撒くという無政府状態になっていました。
現代もこれに近いですね。「世論」という「勅」を勝手に捏造したマスコミがメディアを使って「多数派」を演出していますが、選挙になるとマスコミの予想は全く外れます。真実を報道せず、自分たちの想いを「世論」だと宣伝する態度は、維新の時の攘夷論者と全く同じですね。世論調査などというものは、彼らの主張を糊塗するための便法に過ぎません。
8,18の政変(七卿落ち)
文久3年(1863)は「攘夷」のムードが最高潮に達した頃です。
勿論、長崎ではオランダ船が交易をしていますし、諸外国の商船が出入りしています。横浜も長崎以上に賑わい、国際貿易は順調に転がり始めています。
それと言うのも、金銀の国際レートを知らない幕府役人が、外国公使たちの言いなりに設定したレートで取引を始めましたから、日本の金銀が滝のような勢いで海外に流出していきました。
当然、物価は高騰し、庶民の生活は圧迫されます。井伊直弼がやった条約は「治外法権を認めてしまった」などと政治的な問題ばかりを強調しますが、最大の失敗は「両⇔ドル」の交換レートを間違えたことだと思います。鎖国が250年も続いていて、商売感覚が全くなくなってしまっていましたから幕府役人を責めるのも酷ですが…、アホでしたねぇ。
物価の上昇➡開港したからである➡攘夷 まぁ、現在でも抵抗野党の良くやる論理です。
この論理を掲げて京の都で騒いでいたのが久坂玄瑞をリーダとする長州浪人、および土佐の武市一派など諸藩の浪人たち三条実美などのハネカエリ公卿たち ・・・でした。
「攘夷運動」の大本山は孝明天皇で、この方は生理的に外国人を嫌う性向のあった方のようで、ともかく、日本語を話さないのは人間ではない…と言う程の保守派です。外国人が「神国」の国土を踏むことすら「けがらわしい」と忌避するほどでした。
が、三条や久坂などのハネカエリ分子の活動は苦々しく思っていたようで、信頼できる筋には彼らを排除するように・・・と指令を発していました。
ですから「七卿落ち」の後、孝明天皇は中川宮に親書を遣わし、喜びを伝えています。
「元来、攘夷は皇国の一大事、何とも苦心耐えがたい。さりながら三条はじめ暴烈の処置、深く心痛の次第、・・・、浪士輩と申し合わせ、勝手次第の処置・・・。実に取り除けたいこと、かねがね各々に申し聞かせていたところ、去る18日に至り、望みどおりに忌むべき輩取り除け、深く 深く 悦に入っている」
明治維新の記録を残したのは薩長土肥の面々で、とりわけ後の文教行政を仕切った長州にとって、孝明天皇のこの手紙は歴史から抹殺したかったでしょうね(笑)
この時期の長州は全学連と言うか、革マル、全共闘と言うか、ISやタリバン同様な過激派集団で、理性派の手に負えないほど感情的になり、制御不能だったのでしょう。事実、天皇の意向は無視され、三条、姉小路が勝手に「密勅」を発行していました。古いですが「無茶苦茶でございまするわ」という花菱アチャコの世界でした。
その孝明天皇が頼りにしたのは二人、会津の「松平中将」と薩摩の「国父・三郎」でした。
・・・が、長州から見たら「薩族会奸」でしょうね。恨み骨髄「この野郎!」でしょう。その分だけ会津征伐が過酷になったと思われます。
西郷復帰
西郷どんは、1864年2月に沖永良部から帰るなり、すぐに京都に呼び出されます。
リハビリと言うか…浦島太郎が現実の世に馴染む時間もなく、政争の坩堝(るつぼ)に放り込まれます。これはしんどいですよね。世の動きが激しいだけに「自分の立ち位置」を見極めるだけでも時間がかかります。
西郷どんに、これだけの期待がかかるのは、ひとえに薩摩藩の外交力の不足でしょう。
久光自身が鹿児島から出たことがありませんでしたし、側近の小松帯刀にしても大久保一蔵にしても、鹿児島から出たことがありません。京のルール・マナー、江戸のルール・マナーが全くわからないのです。久光・小松・大久保は・・・いわゆる「治五郎」トリオです。公家や、幕閣とまともに付き合うには西郷どんの「顔」が必要だったのでしょう。
参与会議
この辺りから…維新物語のヒーローたちが続々と登場します。ある程度の予備知識があれば、混乱しませんが、次々に出てくる人命に辟易としてしまうのが普通でしょう。
明治維新という・・・この物語は、スターが多すぎます(笑)
誰を主役にするかですが、薩摩なら西郷さん、長州なら(桂)小五郎か(高杉)晋作、土佐なら坂本龍馬、幕府なら慶喜か勝海舟…こんなところが定番でしょう。
「参与会議」と言うのは、坂本龍馬が勝海舟から聞いた民主主義の概念を短文、箇条書きにしたもの…船中八策を踏み台にした会議体です。一種の御前会議で、天皇の委嘱を受けて開催されます。メンバーは6人、幕府から将軍後見役の一橋慶喜、政治総裁の松平春嶽(越前)、京都守護の松平容保(会津)、それに外様雄藩の島津久光(薩摩)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)です。一見、実力者ぞろいに見えますが、よく言えば個性豊か、悪く言えば我侭育ちの面々です。会議というものも参加したことがありませんし、会議のルールもマナーも知りません。
こういう連中が、集まって、どうなるか。
主導権争いを始めますよね。誰が会議を仕切るかで綱引き…、まぁ、決裂しますね。
龍馬も、「会議体で決すべし」と提案したのは良いのですが、会議の運営方法までは分かっていなかったようで、声の大きな慶喜が独走し、それに久光が抵抗し、空中分解してしまいました。
ハード(人事)ソフト(運営ルール)だけでなくヒューマンウエア(マナー)も要りますね。