敬天愛人 19 薩摩精忠組

文聞亭笑一

いやはや…ネイティブな奄美語は全く聞きとれませんね。薩摩弁だけで辟易としていた人は、もうお手上げだと思います。歴史ドラマとして、そこまで正確に再現する必要があるのか…意見は色々だと思いますが、外国映画同様に、下に出てくるテロップを読んでいます(笑)

愛加那が語っていた「奄美人は薩摩の民ではない」というところ・・・まさに植民地支配そのものですね。奄美、沖縄に対する薩摩の植民地支配はテレビに映る通り過酷だったと思います。

そしてそれが、日清、日露の戦争を経て、台湾、朝鮮の植民地支配へと繋がっていきます。

血も涙もない過酷な搾取・・・それを前提にした国家財政です。教科書では「明治維新後の日本は、欧米列強のやり方を真似て、台湾・朝鮮の植民地支配をした」と、「列強がやっていたからやったのだ。自分だけが悪いのではない」という立場に立った意見ですが…諸外国と付き合う前、鎖国中の薩摩でも、既に列強以上に過酷な植民地支配をやっていましたね。

維新騒動で「会津の長州への怨念」が話題になりますが、それ以上に「琉球の薩摩への怨念」があり、それが太平洋戦争を通じて変質し「沖縄人の、ヤマトンチューへの怨念」に姿を変え、「政府のやることには何でも反対」の雰囲気を醸成しているようにも思えます。

それはさておき、西郷の奄美大島での経験は、維新戦争の中で賊軍への処分に大きな影響を与えました。「大目に見る」「甘い」と言われる処分が数多く見られます。とりわけ出羽・庄内藩への処分は緩やかで、酒田には西郷神社が祀られていますし、出羽藩士が西南戦争で西郷軍に参加したりしています。

西郷と愛加那の結婚

鹿児島時代に伊地知いねさんと結婚していますから、形の上では再婚になるはずですが、最初の結婚では「男と女の関係」は「なかった」ということになっています。そういうことがありうるのか・・・良く分かりません。

江戸や京では「生涯不犯の誓い」を立てて藩主斉彬に男子誕生を祈った…ということになっています。さらに、僧・月照とは男色(ホモ)関係にあったなどとも言われます。

西郷の下半身の履歴に関しては・・・良く分かっていません。(笑)

愛加那とは島の風習に従って正式な結婚をします。

が、それは島津藩が認めるものではありません。島の掟でいえば「結婚」でも、薩摩の掟でいえば「島妾」となり、後に西郷が国許に帰ることになっても、連れ帰ることができませんでした。当時の武士の結婚は「藩主の許しが必要である」という建前になっていました。薩摩藩は植民地支配している琉球系島民を「日本人」と見ていませんから、藩主の承認は出ません。

愛加那との結婚生活は、西郷にとって夢心地のような、幸福感に浸れる日々だったようです。愛加那とは「夜討ち、朝駆け」と表現されるほどに睦み合ったようですね。流人生活というのは「することがない」禁固刑の囚人ですから、夜が待てなかったかもしれません。

今週のドラマが、何にフォーカスするかわかりませんが、西郷・愛加那のルンルンぶりは島中の評判にもなったようで、・・・当然、愛加那には子どもが宿ります。

西郷さん30歳です。これが安政6年の年末のことです。

精忠組

幕末の物語を読むと、薩摩の「精忠組」という組織名称が出てきます。西郷、大久保を盟主とし、薩摩藩の主力として維新回天を成し遂げた英雄たちの集団、という位置づけですが…実は、本人たちは自分たちの団体名を「精忠組」とも、「誠忠組」とも呼んだことがありません。西郷も大久保も、自分たちの組織は「盟中」と呼んでいます。

一緒にやろうと約束し合った仲間たち・・・そんな意味でしょうね。

ところが…西郷や大久保の思いとは別に、この仲間たちの行動力が、薩摩藩の中央政界進出の原動力になっていきました。まずは斉彬が西郷吉之助を使って外交を始めます。この活動は西郷一人で出来るものではありません。「盟中」の有村三兄弟、大山、堀など江戸詰めの仲間がサポートします。とりわけ、水戸藩との交渉では有村、堀などが活躍しています。このルートが、後々の「桜田門外の変」に繋がっていくわけで、斉彬・西郷は全く手出しをしていませんが、水戸藩と連携したテロ事件に、西郷が蒔いた種が生きてきました。

「精忠組」の名前が現れるのを、西郷は大久保正助から届いた手紙で知ります。大久保はじめ薩摩から手紙が届くたびに、西郷は苛立ちました。結婚後は、荒れる代わりに夜の部で頑張ったようですねぇ。

西郷が愛加那との新婚生活でルンルンの時、日本国内はかなりな緊張状態にありました。

主流派・井伊直弼は大獄を強化します。力による支配を強化します。一種の警察国家です。

これに対し水戸学を信奉する尊王攘夷派は「突出計画」と称するテロを計画します。

いつの時代でもそうですが、力の弱い者が権力者に対抗する手段は「テロ」ですね。

現在、日本の国会で騒いでいる「モリカケ、セクハラ」も言論テロの一種です。

それはともかく、精忠組の言葉が出たのは新藩主、島津茂久から大久保たち加治屋町組に出された「内諭」です。これは命令というか、要望というか、特別な業務指示のようなもので、例外中の例外です。藩主が下級武士に直接命令を出すなどは、あり得ないことでした。

大久保の手元には「精忠士面々中へ」と宛名書きされた「内諭」が届きます。

長文ですが、要点だけをつまみ食いすれば

『近ごろ時勢穏やかならず。万一事変到来の節は先君の御趣意を継ぎ薩摩を以て天朝をご奉御、精忠を尽くす所存につき、おのおの国家の柱石となって、我の不肖を助けてくれるよう頼む』

時勢穏やかならず・・・は、精忠組の江戸組が水戸と相談してテロ計画を相談していること、また、孝明天皇と幕府の間が緊張状態になり、京には攘夷浪士たちが集まりつつあることを示します。動乱の気配を藩主も感じていました。

先君の御趣意を継ぎ・・・ は斉彬が宣言した「兵3000を以て皇居の守備に当たる」ということ。

我が不肖を助けよ…と藩主に言われたら、当時の家臣としては泣き叫ぶほどの感激でしょうね。

当時の島津藩としては外交感覚のある者が殆ど不在で、西郷が組織化してきた精忠組というか、下加治屋町組というか、郷中育ちを使うしかなかったのだろうと思います。

この内諭をきっかけに、大久保正助は藩主の父・久光の参謀として藩政に参画していきます。

流罪の島でその手紙を受け取った西郷、許される日を待ちます。

内諭の「請書」には大久保が代筆してくれた西郷吉之助の署名もありました。

「西郷なくして精忠組なし」これが、大久保が島津久光に投げかけた赦免の切り札でした。