敬天愛人 17 西郷人脈
文聞亭笑一
安政の大獄…維新の推進派からすればとんでもない圧政、大虐殺事件になりますが、体制派の井伊大老からすれば反逆者の一斉取り締まりで、治安維持のためには当然の措置です。
シリアのアサド政権のようなものでしょうか。ちょっとやり過ぎの感がありますが…
西郷たちは「突出計画」という名で、幕藩体制を転覆させようという実力行使のテロ事件を計画していたわけで、社会を混乱に陥れようとしているのですから、為政者として放置するわけにはいきません。取り締まるのは当然です。
結果論からすれば、明治維新というのは「開国」に向かうわけですから、井伊直弼の日米修好条約締結というのは先見性があるわけで、正しい方向に向かっていたのですが「世論形成」ができる前にやってしまったので「暴挙」と観られてしまいました。
手続き上の問題です。こういうところが難しいですねぇ。
金(きむ)正恩(じょんいる)と文在(むんじぇ)寅(いん)が板門店でルンルン会見をして、なんとなく南北融和を演出していますが…、このまま次の米朝会談で「融和」の方向に進むと、安倍政権がやってきた「圧力路線」は、時代に逆行した暴挙に見えてしまいます。金正恩が「なぜ、融和路線に舵を切ってきたのか?」それが分かりませんが、結果論から物事を判断するのが「歴史」でもあります。また、政治というのはそういうもので、一寸先は闇です。無責任なマスコミや評論家は、その場その場の思いつきで偉そうな御託を並べますが、まさに無責任、「言ってみただけ…」のたわごとです。
西郷人脈
西郷が島津斉彬の紹介で培った人脈というのは、驚くほど多岐にわたります。斉彬の使者として江戸市中を駆け回っていたのであろう姿が思い浮かんできます。
奄美大島に島流しになる前に、大久保正助に宛てた手紙で「今後薩摩が連携を取るべき人々」をリストアップしています。
<諸藩の有志で連絡を取り合うべき人々>
水戸藩…武田耕雲斎、安島帯刀
越前藩…橋本左内、中根靭負(雪江)
肥後藩…長岡監物
長州藩…益田弾正
土浦藩…大久保要
尾張藩…田宮如雲
このほかにも因幡藩(池田家)筑前藩(黒田家)などとも連絡を取り合うよう、アドバイスしています。西郷吉之助は江戸や京で、かなり広いネットワークを形成していたようですね。
上記した人々はその殆どが家老職、又は藩主の側近(秘書室長)のような人々ばかりです。
それだけに・・・薩摩から一歩も外に出たことのない斉彬の弟・島津久光を地五郎(田舎者)と、バカにする気持ちが強かったのでしょう。西郷と久光は最後まで打ち解けることはありませんでした。その原因は西郷の思いこみでしょうね。斉彬とその系類を呪い殺したお由羅の子・久光は「許されざる人」として意識の底に沈殿していたと思います。
逃避行から…入水心中
テレビでは西郷と月照が山道を泥だらけになって逃げますが…あれはどこの場面でしょうか。大阪からは薩摩藩の便船で下関に渡っています。山道を逃げたとすれば、宇治から枚方あたりか、それとも山﨑から箕面あたりか、京から大阪までの間でしょうね。確かに、守護代による京都周辺の警戒は厳重で、街道筋は通れなかったと思います。
二人は下関にしばらく逗留し、あちこちに繋ぎをとります。
月照を有村俊斎に預けて福岡・黒田藩に向かわせ、その護衛で薩摩に向かわせます。
西郷自身は先行して薩摩に戻り、月照を匿ってくれるように藩の重役を説得するのですが、この時すでに幕府からは月照に対する指名手配の通達が回っていました。西郷に対しても「薩摩藩としてけじめをつけるべし」という内示が届いていたようです。
この時、薩摩藩は斉彬の養子になっていた久光の子・忠義を藩主にすべく、幕府に「お願い」をしている最中です。家督相続依頼というお願い事で、幕府に弱みがありますから逆らうわけにはいきません。それに、筆頭家老の島津豊後守は大の斉彬嫌いでしたから、斉彬の腹心であった西郷の願いなど聞く気は毛頭ありません。吉之助が薩摩に帰っても四面楚歌です。味方は昔馴染みの郷中組の面々ですが、下っ端藩士ですから発言力がありません。
黒田藩の尊王攘夷の志士・平野国臣に守られて薩摩入りした月照ですが、薩摩藩の下した処分は、近衛家から出ていた助命嘆願をも拒否した「東目筋送り」でした。これは、東の日向との国境に連れて行く、国外追放という名目で、実は国境で処刑するという処分です。
しかも、その処刑者に吉之助が指名されます。
「どうせ死ぬのなら…」といった気持だったでしょうね。
夜間です。西郷と月照は日向に向かって錦江湾を渡る船から飛び込み自殺・心中をします。
しかし、この船には西郷を慕う者たちが船員として多数乗っていました。
「大変だ、西郷どんを死なせてはならぬ」と救助に飛び込み、西郷だけを助けてしまいました。彼らに縁のない月照は捨て置かれて溺死し、西郷だけ助かります。
島送り
薩摩藩は上京していた島津豊後が「月照も西郷も死んだ、処刑した」として幕府に報告します。
これで、公式には西郷吉之助は葬られました。「菊池源吾」として奄美大島に送られます。
薩摩藩が西郷に対して厳しい処分をしなかったのは、後に「精忠組」と呼ばれる若者グループが形成されていて、彼らを刺激するのが得策ではないと判断したからです。この集団は西郷を盟主とし、西郷不在の間は大久保正助を仲介役として動いていましたから、その教祖的な存在である西郷吉之助に厳しい処分をした場合「突出する」リスクを感じたのでしょう。
「突出」とは反乱行動、テロ行動のことです。斉彬亡き後、江戸の薩摩屋敷でも、京の薩摩屋敷でも、若手が集まれば「突出計画」の話ばかりで、藩の重役たちもそれをさせないようにと気を使っていました。腫れ物に触る感覚ですね。
しかも、藩主が交代したばかりです。こういう時は、概して幕府に付け入るスキを与え、よくて減封、悪くすればお家取潰しの言いがかりをつけられかねません。島送りでは最も軽い、奄美になりました。徳之島、沖永良部島、鬼界が島の順で重罪になります。