敬天愛人 18 遠島の奄美

文聞亭笑一

西郷どんは自殺に失敗して救助されます。この復活劇は…仕組まれていた可能性もあります。

その後の様子から見て西郷は知らなかったでしょうが、藩の上層部の中で、誰かの画策で、「西郷だけ助ける」という密命が、船長や水夫たちに出されていたのではないでしょうか。

西郷が月照を抱いて海に飛び込んだのは夜間です。夜間の鹿児島湾で、海に飛び込んだ者を見つけるのは至難の技です。誰かが見張っていて、すぐに停船させ、救命ボートなどを用意して捜索に当たるまでには十分程度、いったん沈んでいる者を発見するまでに数十分、早くて三十分、いや… 一時間はかかったのではないでしょうか。さらに、二人の発見後は西郷だけ引き上げ、 月照は捨て置いた…と思われます。

幕府には「二人とも死んだ」と報告し、西郷だけ隠すには一番好都合な死に方です。

これを西郷が知っていたら…相当な悪党ですが、知らなかったのでしょう。

西郷は知らなかったけれど、裏で仕組んだものがいたのではないか、そんな気がします。

島流し

西郷が砂糖運搬船に乗せられて山川港(枕崎)を発ったのは、安政6年の1月10日です。

月照と共に投身自殺を図ったのが前年の11月16日ですから2か月近く静養していましたね。

出発前に何日間かの「風待ち」があったようで、この間に大久保や、有馬などの同志に、今後の展望、対応について意見を伝えています。

西郷は筆まめで、大久保をはじめとする同志宛の手紙が数多く残っています。とりわけ島流しの時代は、手紙しか本土の情勢を知らせるものがありませんから心待ちにしていたと思います。

面白いのは西郷の出す手紙に「大税有吉」の宛名が多いことです。

加治屋町仲間の大久保正助、税所篤、有村俊斎、吉井勇の4人の仲間の頭文字を繫いだものですが、なんとなく暗号にも見えて面白いですね。もしかすると、薩摩藩の重税に苦しむ奄美の住民を見て、藩への皮肉も込めた宛名かもしれません。西郷は皮肉やウイットを良く使います。

例えば、奄美へ着いた直後の手紙に島での様子を伝えています。

「着島より30日になります。…略・・・ 島の嫁女たちの美しきこと、京・大阪にもかなう者はいそうにない。垢の化粧を一寸ばかり、手の甲より先は刺青をしていて、あらよう。

誠に毛唐人には困り入っています。やはりハブ(毒蛇)性で食い獲ろうとするような様子です。しかしながら、至極ご丁寧なことで、トウガラシの下に要るような塩梅で痛みゐる次第です」

美しきこと京大阪より以上だ…と最高級に持ちあげておき、日焼けによる肌の色を「垢の化粧」などと皮肉ります。刺青に関してはあからさまに嫌悪感を見せていますね。

さらに、毛唐とは島民を指すのでしょうが、島の文化に馴染めずに「ハブに食われるようだ」「唐辛子を浴びせられるようだ」などと嫌っている様を表現しています。

風俗、風習もそうでしょうが、西郷いや変名の菊池源吾にとって最も気に入らないのは言葉の壁でしょうね。西郷自身、キツイ薩摩訛りですが、京ことば、江戸言葉には対応してきています。なのに奄美言葉に対応できないのは、どこかに見下す気持ちがあるからでしょうね。

手紙の中でも奄美人を「毛唐」などと表現しています。

奄美大島の言葉

西郷が流された奄美大島は、太古の昔から大陸と日本をつなぐ島として歴史に名を残します。この島に人が住み始めたのは約3万年前からと言われ、縄文以前から海で生きる人たちが残した遺跡があります。南方からやってきたのか、それとも氷河期の寒さを避けて北からやってきたのか、ともかくこの島に残る風習と、北海道のアイヌの風習に共通点が多く見つかっています。

とりわけ言葉が近いですね。現地語でしゃべったら全く意味不明の外国語です。

原作者の林真理子さんは、愛加那にその言葉を話させています。

海ヌアマカラ インガヌ神ヌチー、地ヌウナグス神カチイシャンチ、

ワン体ヤ テイツツキデタンムンヌアリョウリ、ウリバイキャシシリバイッチャロウカ。

ウナグス神ヌイシャンチ、ワンヌ体ヤ へこんだドロノアリョウリ、

ウリカチイリリバイッチャンヨ。

ウガシスイテイ ターリが合わサティ 幾つもの島ヌ マーリタンチ。

ウン中ジムいちばんキュラサン島バ奄美大島チュインチ

文法的には全く日本語です。英語や中国語のように動詞が前に来たりしません。

日本語…というか、現代語でわかりやすくしてみます。

海の向こうから男の神様がやってきて、土地の女神に言った。

私の体には ひとつ突き出たものがある。それをどうすればいいか。

女神が言った。私の体にはへこんだところがあります。

それに入れればよいのです。

そして二人が合わさって幾つもの島が生まれた。

その中で一番美しい島を奄美大島と言います。

日本神話の国生み伝説のような話ですね。神様は高天原から降りてくるのではなく、海の向こうからやってきます。この方がずっと現実的で「アマ」は「天(あま)」と書くのではなく、「海(あま)」と書くべきでしょうね。天下り・・・ではなく、大陸から海(あま)下(くだ)ってきたのでしょう。

日本の神様は「神様だから…」と空を飛びますが、物語に出てくるのは皆・ヒトの形をしている神です。空なんか飛びません。せいぜい海を渡る程度です。神様の祖先「伊弉諾(いざなぎ)」は「いざ凪」で「伊弉冉(いざなみ)」は「いざ波」でしょう。二人して舟を漕いで渡ってきたのです。

刺青(いれずみ)の風習

刺青の風習があるのは東南アジア系の特徴で、中国や北方系民族にはこの風習がありません。

古代の日本には刺青の風習がありました。西暦200年ころに卑弥呼が使節を派遣し、魏国に朝貢する際に貢物にしたのは「生口」つまり奴隷としての「人」でした。この人たちはすべて刺青がありました。その刺青の形と、刺青してある体の部位で、どの種族の出身かが分かるようになっていました。一種のアイデンティティ―、名前代わりでもあります。

奄美ではこの風習が維新の頃まで残っていたんですねぇ。江戸などでは「島流しにされる罪人、流人の証」が刺青でした。公衆浴場などで「刺青のある方はご遠慮ください」の看板も、この流れで「罪人」「ヤクザ」を連想させるからでしょう。

ともかく、刺青文化や奄美の風習は、古代人南方渡来説の根拠の一つでもあります。