敬天愛人 24 沖永良部島
文聞亭笑一
大久保一蔵の尽力により、奄美から薩摩に戻った西郷でしたが、またまた島流しになります。
なぜ、そこまでして国父・久光に逆らうのか・・・
斉彬に心酔していて、久光をその後継者として認めがたかった…とも言われますが、西郷の腹のうちでは「斉彬の後継者は自分である。久光にその代わりはできぬ」という信念と言うか・・・、キツイ思いこみがあったようです。その意味では久光を上司として認めていない…という不遜さがあったのでしょう。
こういう態度が見えたら、久光の方も面白くないですよね。所詮は下級藩士であるにもかかわらず、兄からの覚えめでたさに胡坐(あぐら)をかいて生意気を言う部下、しかもこの男が、内外共に人気が高いとあっては実に目障りです。本当は奄美大島に閉じ込めておきたいところですが、久光自身が斉彬の意志を継いで上洛、幕政改革に参加するためには「西郷人脈」を使わざるを得ません。
とりわけ、京の公家衆とのパイプは西郷の信用がなくては前に進みません。
久光と西郷のような関係、現代でもよくありますね。
優秀、有能であっても、先代を信奉して新任の上司をバカにする部下…こういうタイプを部下にすると苦労します。転勤した職場で、多かれ少なかれ、こういう苦労は体験してきました。
が、若い頃にはその逆もやりましたから…「因果応報」ではあります。
ともかく、奄美から帰った西郷は薩摩藩経営者・久光に対して尊敬の念がありません。斉彬を呪った「お由羅の息子」という先入観がきつかったんでしょうね。それに・・・先代の島津斉彬が、偉大に過ぎました。当時の日本で国際感覚を持った政治家など両手の指にも達しません。
寺田屋事件
久光の命に背いてまでも上京を急ぎ、急進派の暴発を抑えようとした吉之助でしたが、攘夷派の勢いは収まりません。有馬以下の薩摩藩士は説得に応じますが、久留米藩・真木和泉、肥後藩・宮部鼎三、長州・久坂玄瑞、土佐藩・吉村寅太郎など、他藩の過激派は西郷を盟主として祀りあげ、世の中の混乱を狙います。
この戦術は、現在も野党の諸先生方が多用しますが、「運動」を起こして「騒動」に繋げ、それを抑えきれない為政者の能力不足を宣伝します。「モリカケ」などもその一環ですね。大規模になると「60年安保」になります。明治維新の初期も、運動としては似たようなものでしょう。
寺田屋に集まった面名が企んでいたのは、公武合体を進める九条関白の暗殺と、京都所司代の襲撃で、旗印は「攘夷」一色です。所詮は百人規模の活動ですから、効果をより大きくするために「火攻め」京の街を焼くことを前提にした計画です。
これを取り締まるのは当然で、朝廷の依頼を受けて久光が行った「寺田屋不逞浪人取り締まり」は、治安維持のための活動です。後の明治元勲の多くが、この事件では「被害者」の立場に立ちますから「反動的虐殺事件」のように語られますが、為政者側に立って考えれば、当然の行動であったと思いますね。
この事件では、寺田屋に集まっていた50人ほどのうち薩摩藩士は斬り死に、切腹などで戦っていますが、多くは捕縛されて所属する藩に引き渡されています。薩摩藩士でも後の海軍大臣・西郷従道、日露戦争の陸軍元帥・大山巌などが逮捕され、謹慎処分を受けています。
徳之島
種子島、屋久島以下の薩南諸島、西南諸島の島々を地図上でしっかり見たことはなかったのですが、西郷どんの「島流し」のお陰(?)で、この度じっくり見ました。日本国は八百万の島々で成り立ちますが、薩摩から沖縄までの間に、これほど多くの島々があるとは・・…・、改めて地図とニラメッコをしました。しかも、島と島の距離が陸上感覚と比較にならぬほど遠いことを改めて知りました。
「100km」というと、私の日常的運転感覚では「甲府」「御殿場」と思います。新幹線なら「三島」です。ところが、海上となると・・・良く分かりません。信州の山猿の悲しさでしょうねぇ。この物語を追いかけていて、奄美大島と徳之島の間が100km以上離れているということを知りました。そこからさらに沖永良部島、与論島を経て沖縄本島に達します。
将来・・・そういうバカなことは誰もしないと思いますが・・・薩摩半島の先端から沖縄まで橋で繋ぐとします。凄い距離になりますねぇ。東京から大阪まで行ってしまいます。
吉之助が徳之島に流されたと知って、愛加那が会いに来ます。菊次郎、菊草を連れて親子の再会です。が、たった5日間でした。
徳の島から沖永良部島への再遠島命令が追いかけてきます。
勅使下向
寺田屋事件は島津久光の名声を朝廷内で大いに高めました。
「朝廷の組織、権威を守り、京洛の平穏を守るために、久光は自分の家臣までをも誅殺した」
ということで、「島津斉彬の後継者」として認知されます。この辺りが西郷どんの認識不足で、久光は朝廷に高い評価を受けていたのです。久光の提案を受けて、朝廷は幕府への勅命を発します。「幕政改革をせよ」「攘夷をせよ」というものです。この勅使を護衛する名目で、久光は軍勢を引き連れて江戸に上ります。
江戸時代の250年間、軍事的活動は殆どありません。それだけに、勅使を護衛して江戸に上る薩摩軍は偉容です。普段の大名行列の10倍規模で東海道を進んで行きます。沿道の人々は戦々恐々だったでしょうね。鎧兜こそ身に付けていませんが、腰に二刀を携えた侍が千人の規模で移動したら、これは軍隊です。「何が起きるのか?」安心してはいられません。
ともかく
久光が仕掛けた要求はすべて幕府に認めさせました
〇 攘夷を行うこと・・・井伊のやった条約を廃棄すること
〇 将軍は上洛して帝に攘夷を誓うこと
〇 幕府組織を改革し、将軍後見役と政治総裁職を設けること
主だったのはこの三つで、後見役には一橋慶喜、政治総裁には松平春嶽と、兄の斉彬が描いた通りの組閣を達成しました。その意味で見ると、島津久光は幕末の政治転換に大きな功績を残しています。が、なぜかその活動が評価されていません。
結局は、島津久光にビジョンと言うか、自分なりの政権構想、この国のあるべき姿がなかったからでしょうね。明治政府樹立後に「大久保、わしはいつ将軍になるのだ」と発言した政治感覚が、この間の事情を物語ります。
今週は、生麦事件まで行きますかどうか・・・久光の、江戸からの帰路の事件です。