敬天愛人 34 元首交代

文聞亭笑一

時代が大きく動く中で、多くの人たちが理想に燃え必死で努力するのですが、そういう人たちの中で歴史に残るのはほんの僅かです。運よく歴史上に名を残しても「正義の味方」と褒め称えられるとは限りません。「悪役」「悪党」と反面教師にされる残り方もあります。

徳川260年の長期政権が徐々に衰え、維新の激動を迎えるのですが、これだけの長期政権を維持したということは、とんでもなく凄いことです。「安倍政権が6年を過ぎて長すぎる」などという批判も聞こえますが、ちょっと桁が違います。これだけの長期政権が続いたということは、外からの刺激、外圧がなかったことが最大の理由ですが、そればかりではなく日本独自の文化が花開き、国民がそれなりに納得していたからでしょう。文化や教育の高さは、維新前後に日本を訪れた外国人が、庶民の識字率の高さに驚嘆しています。

ドラマは多くの人々を登場させるわけにいきません。エキストラの人件費もさることながら、登場人物が多すぎては話が散漫になります。主役の「西郷どん」と、その周りで働いた人々しか描いてくれませんね。

そんな中で、慶応2年(1866)二人の重要人物が死にます。14代将軍・家茂と孝明天皇です。

将軍家茂・大阪城にて死去

14代将軍・徳川家茂は御三家の和歌山藩主から、井伊直弼によって将軍に推挙されました。

13代・家定の後継者をどうするかについては、幕府内での政局が蠢き、一橋慶喜を担ぐ改革派勢力と、紀州吉富を担ぐ保守派勢力が闇の中で政争を展開しました。こういう争いは論理と情、更に意地が絡みますから陰湿になります。14代の選定に関しては大奥の「感情問題」まで絡みましたから、実に複雑な展開になりました。

慶喜派の安倍正弘が死に、島津斉彬が死に、剛腕・井伊直弼の登場で一気に「家茂」が将軍位に就きます。その後、井伊直弼はテロの凶刃に倒れ、その後の「公武合体」政策で朝廷から和宮を正室に迎え、将軍家としては落ち着きを取り戻しました。

家茂も和宮も10代の若者です。このままであればルンルン、先ずは家庭を作り上げ、江戸城内をまとめて国政に乗りだすところです。この当時の文部大臣とも言うべき儒学者・佐藤一斎が言う「修身、斎家、治国、平天下」を順番にやっていくのが将軍としての王道でしょう。

ところが、時代はそんな呑気なことをさせてくれません。「尊王攘夷」というスローガンを掲げたデモ隊、テロリストが朝廷を担ぎあげ将軍に攘夷、外国船討払いを求めます。対外戦争をしようというのですから無茶な話です。260年もの鎖国で国際標準と無関係で過ごしてきましたが、幕府中枢部や長崎で修業した者たちは、それなりに国際常識を理解していました。「尊王攘夷」を唱えて京の都にたむろする者たちは、その殆どが下級武士出身です。長崎で学ぶなどということはありません。田舎者も田舎者、尊王攘夷は言葉通りにしか理解できていません。

「将軍様より天皇陛下の方が偉い。

外国人には神国の土を踏ませてはならぬ。見つけ次第、たたっ斬れ」

こういう連中が若手公家を担いで京都政権を立ち上げ、幕府に対抗しました。

公武合体というのは、自社さ連合政権の「村山内閣」のようなものでした。野合政権です。

こういう政権で「代表」をやるのは「ハンパネェ・・・ストレス」でしょうね。家茂の死因は脚気ということになっていますが、強度のストレスに依る心臓障害、または脳血栓などの循環器系疾患が起きたように思います。

孝明天皇の死

畏れ多いというので、天皇に関する歴史的分析はほとんどなされて来ませんでした。あまたの小説家も天皇を生々しく描くことは避けてきました。・・・が、今回の原作者・林真理子さんは単刀直入に孝明天皇の人格・心理に踏み込んでいますね。

病的なほどの潔癖症、神国信奉・・・という人格でこの天皇を捉えます。そうすると・・・攘夷運動の性格が見えてきて、あちこちで湧きあがった「尊王攘夷運動」が理解しやすくなります。

この運動は「安保反対闘争」に似ています。どこかに凝り固まって、熱病のように思考能力を奪います。安保の時は「条約が結ばれたら戦争になる、徴兵制が復活する」という浅沼稲次郎の宣伝が若者たちに信じられました。

維新の頃の若者たちはペリーの強圧的条約交渉に警戒感を高め、この国を外国に支配されてはならぬ。

国際法、国際常識がどうあろうと、日本の伝統文化は守る。

この二点で凝り固まったのでしょう。独立のためには「攘夷」伝統とは「尊王」

孝明天皇の、潔癖とも言うべき外国嫌いを利用して、幕府を攻撃したのが三条実美と長州浪人です。攘夷、攘夷で京の町は「攘夷」に染まります。これは、京雀のアンチ・江戸と結びついて攘夷が何かわからぬ庶民まで熱狂させます。天皇復権=京都再興の夢が膨らみます。京都人にとっては外交や政策のことなどはどうでも良く、「都を取り返す」期待に盛り上がりました。

時が移り、威勢の良かった三条など7卿と長州が京から追われます。代わって入ってきた薩摩は孝明天皇に好まれません。天皇が頼りにしたのは会津の松平容保と一橋慶喜で、公武合体路線そのものでした。蛤御門の変以降、天皇のこの傾向はますます強まり、慶喜一任の政策が続きます。これには諸大名も、公家も「?」となり、天皇への信頼が低下していきます。

孝明天皇は慶応2年の12月、突然、天然痘にかかって死にます。

突然です。都で天然痘が流行していたわけではありません。

感染ルートは、天皇が寵愛していた寵童(ホモ)の少年

ここまでは分かっていますが…暗殺とは言えませんね。しかし、暗殺の匂いが実に濃い。

1853年、ペリーが浦賀に来たときは日本中がパニックに陥りました。が、あれから13年横浜、函館が開港され、鎖国は実質的に解放されています。 「攘夷」という言葉のイメージが、すでに変質しています。政治指導者の大半は、既に攘夷を捨てて「開国」に舵を切り、幕府はフランスと、薩長はイギリスと手を組んでいます。

こういう環境の中で最高権威者である天皇が一人、昔ながらの「攘夷」にこだわっていたら…邪魔になります。しかも孝明天皇が傍に近づけるのは慶喜と会津・松平です。この状態は越前、土佐をはじめとする諸大名から見ても顰蹙もので、天皇への信頼が薄らいでいました。「尊王」の看板にまで泥を塗ります。

・・・状況としては・・・、消したいですね。消えてほしいですね。しかし真実は闇です。