敬天愛人35 王政復古

文聞亭笑一

幕府からすれば「大政奉還」ですが、朝廷側からすれば「王政復古」

天皇の親政に戻すということで、呼び方に違いはあるものの政治権力の移転です。民主主義の世になり、選挙制度が確立してからは平和裏に政権移動がなされますが、幕府のような軍事政権では実に珍しい政権移動の形態です。ただ、これを政権移動というかどうかが問題で、徳川家に軍事力や経済利権が残ったままでの、行政権の返上だけでは実質的に何も変わりません。

実際に幕府とフランスの間で交わした密約では、契約当事者が幕府でなく徳川家に変わるだけで、そのまま生きてきます。ドラマでは「フランスは支援の見返りに生糸の専売権と薩摩の割譲を約束した」としていますが、フランスに担保として提供する予定だったのは北海道です。

ただ…交渉の過程で、沖縄(薩摩の支配地)が割譲候補に上がった可能性があります。

慶喜が、どこまでフランス・ナポレオン3世の支援を受ける気だったかどうか、わかっていませんが、ヨーロッパの植民地支配の手順通りに動かされていたのは事実のようです。内戦を起させ、傀儡政権を支援し、領土の割譲と利権の独占を計ろうという策略です。

フランスのロッシュ公使はかなり積極的にこの活動を行い、幕府経済官僚の小栗上野介などはロッシュに取りこまれてしまっていました。海軍を担当していた榎本武揚などもその一人でした。

が、戊辰戦争が始まって以降、フランスの働きかけが鈍るのはプロシャとの戦争(普仏戦争)が起きたためです。足元のヨーロッパで戦争が起き、フランスが劣勢に回りましたから日本どころではなくなりました。

そういう点で幕末の騒動というのは運が良いですね。

当初、強硬に開国を迫ったアメリカは南北戦争で手を引きました。

そして今度はフランスです。侵略しようとした勢力が自滅していきました。

密勅と錦の御旗

王政復古を宣言しましたが、朝廷は行政の執行機関を持ちません。従来の執行機関は幕府、つまりは徳川家の機構で朝廷の意のままには動きません。徳川慶喜の命令に従います。

たとえば東海道五十三次の宿場、これはすべて幕府の直轄地で交通行政の総てを取り仕切ってきました。幕府が政権を返上しても、物流業務を停めるわけにはいきません。伝馬制をはじめ、助郷などの制度がないと物流、郵便はストップします。

あちこちでそういう混乱が生じたのでしょう。「えじゃないか」の騒動が起き、全国に広がっていきます。街道筋の幕府役人は「大政は奉還した、わしゃしらん」という態度で警察権限放棄ですから、誰も停める者がいません。

食料を無断でもらっても…えじゃないか

着物を奪っても・・・えじゃないか

家を焼いても・・・えじぇないか

無政府主義・・・などと云うたいそうなものではありませんが、無礼講が行きすぎて制約や自制が全くなくなってしまったお祭り騒ぎ、暴動です。踊り狂いながら、無頼三昧です。

これが、都市部中心に全国に広がっていきます。

徳川家には300万石と言われる天領があります。幕藩体制で最大の藩は加賀・前田家の百万石でしたが、大政奉還で徳川家が3百万石の最大の藩になりました。政治的には何ら責任を負いません。治安維持も「藩内」だけで、宿場、駅伝などには無責任です。

つまり、霞が関の官庁街が、こぞって東京都庁に鞍替えしたようなもので、国家としての官僚機構が消滅してしまいました。「大政奉還」「王政復古」とはそう言うことで、執行機関なき政権交代なのです。

天皇が何を命令しても、執行する者がいません。政府の体をなしていません。

大政奉還があっても、倒幕、徳川家と官僚機構を破壊して、作り直すしか王政復古はあり得ません。そのあたりが・・・龍馬も、土佐藩のトップもわかっていなかったようです。

岩倉村に出入りしていた面々、薩摩の西郷、大久保、長州の桂、品川弥次郎、土佐の中岡慎太郎などは「武力討幕」しか政権交代はありえないと基本方針を決めていました。

そのためには、徳川家を討つための大義名分が必要です。

新政府は合議制を考えていましたが、その合議のメンバーに徳川慶喜を入れようという意見が土佐、越前から出るに及んで、合議制を捨てました。岩倉具視を中心とする政治的陰謀によって武力討幕に舵を切ります。これを推進したのが「西郷どん」です。

「西郷どんのユッサ(戦)好き」と言われるのは、この時、西郷が公家や諸藩に武力討幕の必要性を、精力的に説得して歩いたからです。

「密勅」が用意されます。明治天皇はまだ16歳、政治的判断ができる歳ではありません。

この文案を作成したのは文学者・玉松操、岩倉具視のブレーンです。

これに、天皇にサインさせてしまったのが岩倉具視、闇の中の話です。・・・だから密勅

ついでに錦の御旗のデザインも決め、西陣で織り上げ、長州で旗にするなどという細工もします。

益満休之助

西郷、大久保は徳川との戦支度を進めますが、相手の徳川が何も仕掛けて来なければ戦争を始まられません。慶喜は長州征伐のために召集した1万5千人の兵士を大阪城に駐在させています。

京都に薩摩兵3千、長州兵2千、土佐兵1千、芸州兵1千と朝廷派の兵力はいますが、戦力比較では圧倒的に優位です。だからと言って、理由もなく京に攻め上るわけにはいきません。慶喜も、西郷も、次の一手を仕掛けられません。

ここで西郷が汚い手を打ちます。江戸の霍乱作戦です。徳川の本拠地である江戸を混乱に陥れ、徳川から先に戦争を仕掛けさせようという魂胆です。益満休之助をリーダに、諸藩の浪人やあぶれ者を使って盗賊集団を組織し、江戸の街を混乱に陥れます。

これに怒ったのが・・・旗本が中心の町奉行所、そして市中見回り役の庄内藩で、賊たちが根城にしている芝の薩摩屋敷を砲撃します。先に手を出してしまいました。喧嘩は先に手を出した方が悪党・・・というのが世界共通ルールのようです。

「徳川は大政奉還している、治安維持権限を放棄したのに、薩摩屋敷を攻撃した。

これは私闘である。仕掛けたのは徳川である」戊辰戦争の幕開け、鳥羽伏見の戦は徳川に戦争を仕掛けさせたい西郷どんの陰謀から始まりました。