敬天愛人 41 訪欧使節団
文聞亭笑一
西郷どんが政府に引っ張り出され、天皇の親衛隊を組織し、その力を背景に政府は廃藩置県を断行していきます。天皇直属の軍、錦の御旗の政府軍、こういう圧力に抵抗しようという勢力はありません。殿様たちも、藩の重役たちも、しぶしぶと・・・従わざるを得ません。
政府側も、経過措置として藩主をそのまま県知事に任命しましたから、政治機構としてはそれほど大きな変化はありません。しかし、何がしかの役に付いていない元・藩士は俸禄がありません。失業です。
こういう失業者が世に溢れます。彼らは資産を売り払うしか収入の道がありません。一方で、農民層の中には「今がチャンス」と武士たちの所有する土地を買い占める者もいます。この時代に「武家の商法」などと馬鹿にされる事例が多々出ましたが、多くは資産を安値で手放してしまったことですね。生産財としての土地…そういう感覚が全くなかったのが、武士たちでした。
廃藩置県
基本的に大名の所管範囲を「県」としましたが、5万石以下の小さな藩では県が多くなり過ぎますから、天領を含めて統合が行われます。それでも3府72県になりました。
3府とは東京、大阪、京都
72県を具体的に挙げるのは面倒なので、例えば私の出身地・信濃の国の例で話します。
長野、上田など東北信地方が松代・真田藩を中核とする「長野県」となり、松本、諏訪、飯田など中南信地方が松本・戸田松平藩を中核とする「筑摩県」に二分されました。その後、この二つが統合されて現在の形になっています。県庁所在地をどちらが取るか、県名は・・・など、政治駆け引きの世界ですが、官軍で活躍した真田と、賊軍にされた松平では勝負になりません。長野の勝です。ですから旧筑摩県出身者は「お生まれは?」の質問に「信州です」と答えます(笑)
大学も本部を松本に置き「信州大学」です。戦前の軍隊も50連隊は松本でした。
こんな事例は各地で枚挙にゆとりがないほどで、日本全国が混乱の渦中にありました。
訪欧視察団
ともかく、廃藩置県は表面上、上手く行きました。藩主の権限を取り上げて、政府の行政役人という地位に落とし、自治を認めない中央集権が形の上で出来上がりました。内政改革としては一段落です。
ところが、そこへ大隈重信などの佐賀藩出身者が「不平等条約を改更すべし」という上申書を提出してきます。佐賀藩は維新の活動に乗り遅れましたが、自前開発していたアームストロング砲が上野の彰義隊殲滅や戊辰戦争で大活躍し、一躍維新の主役「薩長土肥」の一員に加わりました。遅れたのが幸いして、優秀な人材は一人も失っていません。その点では、先行した薩長土が多くの優秀な人材を幕末の騒乱で失ってしまったのと対照的です。明治新政府の参議のうちでも大隈重信、副島種臣、大木喬任、江藤新平と4人を出し、薩長土肥のうち最多数です。
大隈は「この仕事、私にお任せあれ」と提案してきます。
これにカチンときたのが大久保、岩倉、木戸と言った政府の首班たちで、大隈の提案の裏を探ります。裏というほどではありませんが、大隈はイギリス公使・パークスと親しく、当然、その通訳のアーネストサトウとも親しくしています。サトウから幕府が交わした条約がいかに不平等かの説明を受け、改更の道筋の指導も受けていました。
「これ以上佐賀者に大きな顔をさせてはならぬ」と首脳陣は警戒します。犠牲も払わず、成果だけ獲ろうとする佐賀出身者を嫌いました。「佐賀人の通った後にはぺんぺん草も生えぬ」という通説が流布されたのはこの頃かもしれません。
「提案はもっともだ。条約改正をしなくてはならぬ。これは国家の大事である。
国家の大事であるから、政府首脳が自ら当たらねばならぬ」
これが岩倉、大久保、木戸の結論でした。彼らにとっては、廃藩置県という大改革が終わり、ちょいと外遊でも…といった気分でもありました。大使節団になります。
全権大使;岩倉右大臣 副使;木戸参議、大久保大蔵卿、伊藤博文工部大輔、山口尚芳外務ほか総勢50人の使節団になり、これに留学生が加わって百数十名という大集団になりました。
人数で、人海戦術で、条約改正を成し遂げようと思ったわけではないでしょうが、事前交渉も、根回しもなしに、いきなり改正の申し入れに渡米するというあたりが外交オンチでしたね。
当然のことながら、アメリカ政府からはケンモホロロの扱いを受け、目標は頓挫します。
「すごすごと帰るわけにはいかぬ、ならば目標を変えようではないか。
日本が将来目指す手本となる国家はどこか、それを探す旅にしようではないか」
こういう話になり・・・アメリカからヨーロッパに足を延ばし、漫遊旅行に出かけます。
岩倉・黄門様に、大久保と木戸が助さん、格さんと言った塩梅です。
留守政府首班・西郷隆盛
留守政府は、名目上は三条実美太政大臣がトップですが、この人は決断をしません。国会議長のような役割で、色々な提案を周旋するだけです。使節団から外された佐賀出身の参議がいます。土佐出身の後藤象二郎、板垣退助と言った参議もいます。この人たちは、使節団で外遊している主流派に対して非主流、又は反主流で、留守中に何を始めるかわかりません。
大久保はその重石というか、ブレーキ役を盟友・西郷に託しました。
口約束では危ないと「留守中に改革はしない。人事異動をしない」という証文を交わします。
ところが西郷さん、留守中に改革を始めます。一つや二つではありません。
― 政府から県に送りこんでいた副知事を「県令」として権限を増した
― 士族の職業選択の自由を発令した
― 身分制度を、士農工商を廃し、皇族、華族、士族、平民の階級に改めた
― 兵部省を廃止し、陸軍省、海軍省に改めた
― 太陰暦を廃止し、太陽暦に改めた
― 藩札を処分するための法令を施行し、政府が発行する貨幣に統一した
― 徴兵制を断行した
「なにもしない」という約束を破り、次々と改革を行いますが、この多くは江藤、大隈などの佐賀出身者の発案でした。西郷が「よか、よか」と許可しています。西郷にとって、徴兵制を除いては「大した案件ではない」という認識だったようですね。