敬天愛人 40 カゴンマ・ファースト

文聞亭笑一

鹿児島生まれの人は、鹿児島をカゴシマとは言いません。カゴンマです。

西郷どんが中央政府に嫌気がさして、鹿児島に戻った背景・・・それが西郷どんの、心の奥底にある「カゴンマ・ファースト」の考え方ではなかろうか…と推察します。

薩摩藩は武士階級の比率が異常に高く、全人口の1/3ほどが武士階級に属していました。

火山灰シラスの痩せた土地に、異常なほどの非生産人口です。重税にならざるを得ませんね。

構造的に無理のある経済環境でした。

「それを何とかしたい」「民が豊かになる政治を」と西郷は願いますが、明治新政府にとってはそんなことにまで手が回りません。

新政府の形を作り、諸外国と対等な外交関係を作り上げなくてはなりません。ここらが・・・西郷どんが、政治に嫌気がさした根っこでしょうね。

西郷が生涯、座右の銘にしたという歌があります。

虫よ虫 五節草の根を絶つな 絶たば己も共に枯れなむ

武士階級を稲に寄生する虫に例え、百姓たちを五節草、つまり稲に例えます。西郷がこだわったのは農本主義で、農業の発展こそが国を豊かにする根本だと考えていたようです。

ですから、息子の菊次郎も弟・従道に任せて東京に出し、そしてアメリカに留学させますが、西郷が菊次郎に求めたのは「進んだ農業技術を手に入れて来い」というもので、農学部的学問分野でした。

函館戦争と北海道開拓

明治新政府に最後まで抵抗したのは、榎本武揚率いる幕府海軍でした。これに、元・新選組の土方歳三など戊辰戦争の残党集団が加わり、函館の五稜郭に立てこもっていました。

五稜郭はフランスから輸入した築城法で、五カ所の突出部から死角なく、寄せくる敵を攻撃できます。攻撃側からすれば実に厄介な構造で、突破口を見つけるのが困難です。しかし、寄せ手の方には大砲・長距離砲がありますから、城内の大砲の射程距離外から砲弾を撃ち込まれては、防ぎようがありません。

五稜郭を攻めていたのは、西郷どんの郷中の後輩・黒田清隆です。黒田は強硬戦術を取らず、西郷譲りの和平路線、降伏勧告に徹します。

「戦うか、降伏するか。戦うなら弾薬が足らんだろうから提供する。何がどれだけほしいか…言って来てくれ」  ・・・と黒田。

「好意はありがたいが、武器弾薬は十分にある。

それより、留学時代に手に入れた国際海事の法律書がある。これをそちらで利用してほしい」

という返事と共に海自全書を送りつけてきたといいます。これに感激した黒田は、酒樽数樽とつまみを添えて五稜郭に送り返したという美談があります。

持久戦に業を煮やした新政府は、薩摩に援軍を要請します。その援軍を率いて函館に向かったのが西郷どんでしたが、西郷が函館につく前に榎本は降伏しています。西郷はそのままUターン。鹿児島藩の参政(家老)という立場に徹します。中央政府の復帰要請には全く応じません。

榎本が降伏の条件に要求したのは北海道の開拓を幕臣たちに任せてくれというものでしたが、それは認められず、新政府主導で開拓が始まります。その指揮をとったのが黒田でした。

廃藩置県

版籍奉還は既になされていました。しかしこれは形だけのもの、名目上の措置で、地方政治は相変わらず昔のまま、各藩が執り行っていました。その意味では幕府時代と何ら変わりません。鹿児島、薩摩藩にしても同じことで、藩の行政機構がそのまま政治に携わっています。

ただ、門閥系の重役が引退し、西郷や下級武士出身の能吏が実務を執り行うという形態に変わっています。薩摩の場合、維新の主役として頑張りましたが、藩としてのメリットは殆どありませんでした。領地が増えたり、石高が増えたりしたわけではありません。いわゆる「加増」の恩恵に浴したわけではなく、新政府のもとで活躍した下級武士たちが出世して良い生活をしているだけです。

どれくらい良い生活か? 大久保の場合、約2500坪の旧・二本松藩の上屋敷を自宅にし、芸者を妾に囲って優雅な生活を送る…と言った感じですかね。江戸に残っていた大名屋敷の殆どは、維新の元勲と言われる者たちの邸宅に変わっていました。

鹿児島に残った者からするとヒガミ、ヤッカミを含めて、許せない所業に見えたでしょう。

とりわけ島津久光にとっては癪に障ります。

「わしが許したからこそ大久保も、西郷も活躍ができた。薩摩の力があればこその維新ではないか。それなのになんだ。西郷が正三位とはどういうことか。藩主の忠義が従四位なのに、その上に行くとは何事か」

確かに位階、位は逆転現象を起こしています。西郷の方が3階級も上になってしまいました。

(従四位、正四位、従三位、正三位)

西郷も流石にこれは受けられぬと辞退しますが、岩倉はじめ政府のトップは「地位の逆転こそが、ご一新を天下に知らしめる宣伝効果が高い」と辞退を受け付けません。

辞退を受理してもらうのに半年かかっています。

それやこれや、・・・あちこちの殿様族の抵抗が多く、しかも維新の主役になった島津久光、山内容堂、松平春嶽と言ったところが新政府に批判的です。その彼らから牙を奪うには「廃藩置県」しかありません。「藩」という存在をぶち壊すしかありません。藩主に代わって、中央から行政の長「知事」を送りこむしかありません。

これには相当な抵抗が想定されます。戊辰戦争の二の舞も考えられます。

「政府軍を組織するしかない。その政府軍を指揮するのは西郷しかいない」

岩倉、大久保が自ら鹿児島まで出かけてきて、西郷に政界復帰を説得します。

「天皇の御親兵を作ってくれ」

この文句に西郷も重い腰を上げました。藩兵の寄せ集めではない「政府軍」これが御親兵です。

薩摩から3200人、それに長州兵、土佐兵を加えて8000人の政府軍、これを西郷が指揮することになりました。

西郷にとっては渋々ではありますが、しかし、一方では薩摩武士3200人に「政府軍人」という職場を斡旋したことにもなります。再就職です。

「天皇の命に逆らう藩があれば、御親兵が出動して討つ」

こういう脅しを背景に、廃藩置県が行われていきます。