敬天愛人 38 奥羽越列藩同盟
文聞亭笑一
「西郷どん」の原作では、会津をはじめとする戊辰戦争には全く触れていません。
原作での話は菊次郎の回想談になり、菊次郎が生母・愛加那と別れて養母・糸のもとに引き取られていくいきさつになります。
そして、鹿児島に帰っていた西郷と対面し、父と子のホーム・ドラマ的展開を見せるのですが…それよりも前に
上野での彰義隊の抵抗、
榎本武揚が勝・西郷会談の約束を破って幕府海軍を率いて函館に逃走
奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の赦免を求めて嘆願活動を活発化
こういった政治的には重要な動きが飛ばされてしまっています。
ここらを…NHKはどう描くかですが、戊辰戦争というのは
長岡藩での「官軍と河合継之助の戦」、
会津藩での「白虎隊」、
二本松藩で「二本松少年隊の悲劇」
といった司馬遼太郎的物語だけではなく、実に複雑な政治的動きが蠢いていました。国内ばかりではありません。欧米列強を巻き込んでの売国的外交も行われていました。
プロシャへの「釧路、留萌割譲案」
奥羽列藩同盟という動きが出ます。仙台藩を中心に「会津、庄内助命嘆願運動」が起きます。会津藩は京都守護職として新政府(薩長)に抵抗してきました。
庄内藩は江戸市中見回りとして、同じく薩長を取り締まってきました。
「このニ藩を血祭りにあげるのだ」というのが新政府軍の「ムード」で、その先鋒を担うのが長州藩奇兵隊、山県狂介(有朋)大村益次郎です。
蛤御門の変での敵討ちというのか、新撰組などにいじめられた仕返しというのか、はたまた二度に亙る長州征伐への意趣返しか…、ともかくも「会津だけは許さん」という怨念に凝り固まっていました。
その動きを察した奥州諸藩は、新政府の矛先が「いずれはわが身に…」との不安に駆られます。
仙台藩(伊達)、南部藩(南部)、二本松藩(丹羽)、秋田藩「佐竹)、米沢藩(上杉)など、皆10万石を越える大藩ですが、新政府軍を構成する薩長土肥など、西国諸藩との交流がありません。
「何をされるかわからん」という不安は「同盟し、外国勢力とも結んで新政府に対抗する」という動きになります。身を守るためなら手段を択ばず…といった動きです。
列藩同盟は、日本に遅れて参入してきて、新政府と全く交流がないプロイセンに目をつけました。時の宰相がビスマルクです。列藩同盟の構想は「奥羽越列藩同盟の独立」です。日本国を西日本新政府と奥羽越王国で分割しようという提案で、その後ろ盾にプロシャを抱きこもうとしました。条件は留萌、釧路の「香港化」です
ヤバい話です。貧すれば鈍す・・・と云いますが、北海道をフランスに売ろうとしたのは幕府官僚の小栗上野介、そして同様にプロシャに売ろうとしたのが列藩同盟、仙台藩の松岡某でした。
日本にとって幸いなことに、プロシャはフランスと普仏戦争をしていました。どちらも、地球の裏側にある日本にまで軍隊を送るゆとりはありませんでした。ビスマルクの「やめとけ!」の一声で介入は無くなりましたが、南北戦争の危機ではありました。
二人天皇?
最近、当時の海外資料の研究が進んでいますが、外国人の目から見て慶応4年(1868・明治元年)のこの時期、つまり会津攻撃の前夜に
「日本には二人の天皇がいる」という記事が幾つか見られるようです。
一人は当然のことながら明治天皇…まだ10代の若者です。
もう一人が輪王寺の宮、この人は明治天皇の叔父に当たりますが、奥羽越列藩同盟はこの人を盟主に担ぎました。輪王寺天皇を担いで独立・・・と云う構想です。
なぜ、こう云う皇族が奥羽列藩に担がれたのか?
名前の通り、輪王寺は日光東照宮にあるお寺です。ここには皇族が派遣されていました。
また、輪王寺の法主は上野寛永寺の法主を兼ねることもあります。
輪王寺の宮は、当時、上野寛永寺にいて…彰義隊に巻き込まれて、反政府の象徴になり、榎本の艦隊に便乗して江戸を脱出します。そして仙台に滞在し、列藩同盟の盟主になっていく…という流れですね。
水面下でこういう動きがありましたから、新政府も甘い顔はできなかったのでしょう。列藩同盟を完膚なきまでにやっつけてしまわないと、日本の統一が脅かされる・・・新政府側にはそういう危機感があったかもしれません。
こういう情報をつかんで新政府に提供していたのは、アーネストサトウなどのイギリス外交官、それに薩摩の五代友厚、土佐の岩崎弥太郎など、横浜、長崎を舞台に活動していた政商たちでしょう。こういう政商は維新側についた者たちばかりが歴史物語に登場しますが、庄内藩・酒田の豪商・本間家は庄内藩のために大量のスナイドル銃(ライフル)を調達しています。
これが会津藩にも流れ、官軍をてこずらせましたし、長岡藩の河合継之助は「回転式機関銃」まで手に入れています。
庄内藩始末
西郷どんは、生涯自ら興した書物がありません。「南洲公遺訓」というものが知られ、それが 西郷隆盛の人となりとして「敬天愛人」の言葉などと共に伝わります。
この書物、西郷に育てられた薩摩人で西南戦争を戦った者たちが書き残した物ではありません。
この書物を書いたのは幕末に江戸・島津藩邸を砲撃した庄内藩・酒井家の家臣たちです。
なぜ? 官軍に降伏した庄内藩は、会津藩同様の厳しい処分(大幅減封、僻地追放)を覚悟していました。が西郷が、地元民や商人たち(多分、本間家)の赦免嘆願を受け入れ、「無罪」同様の温情判決をしてしまいました。
それもあって酒田には西郷神社があります。勿論、神様は西郷どんです。庄内藩士は西郷を師として、神として祀り上げ、その一語一語を記録し「南洲公遺訓」にしました。庄内藩の子弟教育の教科書にしました。
ここらのいきさつ・・・テレビに出てきますかねぇ。
多分、今週は愛加那さん、糸さん、そして長岡で戦死してしまった吉次郎の家族・・・
そういう西郷家の内部話題が半分を占めそうです。
それはそれで、興味が湧きます。