敬天愛人 37 維新の脇役
文聞亭笑一
勝と西郷の田町会談はあまりにも有名です。勝の交渉力によって慶喜の処分が緩やかになったと言われますが、その談判、交渉事よりも江戸城の女たちからの嘆願が功を奏したのではないかと思われます。
13代家定夫人の篤姫・天璋院から幾島を通じて西郷に助命嘆願があります。
14代家茂夫人の和宮から元婚約者だった有栖川の宮への助命嘆願があります。
西郷にとっても、有栖川の宮にとっても、この嘆願は無視できません。自分たちの青春に泥を塗るようなことになります。
田町・薩摩藩蔵屋敷
勝・西郷が会談した場所は「高輪の薩摩屋敷」と言われますが、ここは薩摩藩・蔵屋敷です。薩摩から運び込んだ物資の貯蔵庫で、会談をするような場所ではないのですが、三田の薩摩屋敷は庄内藩の砲撃を受けて破壊されています。使えません。それに、薩摩藩の上屋敷は三田の大木戸の内側、江戸市中に入ってしまいます。
「東海道の、大木戸の外で…」
「交渉が成るまでは敵を一歩も市中に入れない」
これがせめてもの幕府の意地だったでしょうね。
現在の田町駅を訪ねると、改札を出て地上に降りるエスカレータの壁面全体に、モザイク画で会談の様子が描かれています。そして、駅から少し東京よりに歩くと道路沿いの植込みの中に「勝・西郷会談の地」と、丸い大きな石碑があります。石碑の場所は薩摩藩蔵屋敷のあった場所ですが、そこから少し脇道にそれると小さな神社があります。その先は当時、海だったようですが寄せくる波の音を聞きながらの会談だったようです。
全くの余談ですが、この辺りの海岸を袖ヶ浦と言います。東京湾には千葉寄りにも袖ヶ浦があり、品川海岸も袖ヶ浦と言われます。いずれも日本武尊と弟橘姫の悲恋物語からの命名で、右袖、左袖などとも言われましたが、品川は明治に入って海中に鉄道が建設され、埋立てが進み、海岸は消えてしまいました。
高輪のこの辺りは西国の大大名の広大な屋敷が並んでいました。九州の有馬、阿波の蜂須賀などの屋敷がありました。それを見張るように山上には会津藩の屋敷があります。現在、それら屋敷跡の殆どは外国の大使館や公使館になっています。江戸の歴史散策をするには格好の場所ですが、屋敷うちに入れないのが残念です。
幕末三舟
勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟・・・この三人を幕末三舟と呼びます。最後の将軍・慶喜の命を守って徳川の明晰を残した功労者、忠義の人という位置づけです。
海舟、鉄舟は芝居や映画、ドラマにもたびたび登場しますが泥舟はあまり登場しません。
この人は常に慶喜の傍にあって慶喜の警護と監視を担当しました。
警護…とは、慶喜を担いで官軍に抵抗しようという旗本や大名たちを慶喜に会わさないことです。上野の山に集まる旗本たちに旗印として担がれてはなりません。
監視・・・とは、慶喜は「二心殿」などと言われる通り、精神分裂的なところがあって「謹慎」と言いながら「逆襲」を口にしたりもします。とりわけフランス公使ロシュとの接触を警戒しました。維新騒動に外国の干渉を許さないというのが西郷や勝の基本姿勢でした。
高橋泥舟は剣豪でもありましたが、歌人でもありました。
欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつれて道を失う (泥舟)
欲心が湧いたとき、ふと・・・振り返るには良い一首ですね。
慶喜のブレーキ役として駿府に移るまで傍を離れませんでした。目が離せないほど慶喜は浮気性だった・・・ということかもしれませんし、慶喜を担いで反乱を起こそうとたくらむ輩がたくさんいたということかもしれません。
和宮内親王・静寛院宮
政治のために恋人と引き離された悲劇の女性・・・という観方が一般的ですが、そうとばかりは言えない側面もあって、評価が分かれます。
有栖川宮との婚約を破談にして徳川に人質に出される・・・こう考えると全くの悲劇です。
人身売買、性奴隷的な印象まで付きまといますが、どうも・・・そうでもなかったようで、家茂との夫婦生活は極めて円満であったようです。互いに甘いものが大好きで、菓子を口にしながら談笑していたようですね。それもあってか、家茂も和宮も死因は美食病・脚気でした。
家茂の死後は静寛院を名乗ります。維新後明治2年にいったん京都(青蓮院)に戻りますが、家茂との思い出の地が懐かしかったのか、それとも公家たちが東京遷都で移住して寂しくなったのか、明治7年には東京に移り住みます。
明治10年31歳の若さで療養中の箱根で亡くなりました。墓所は本人の強い希望で、増上寺の家茂の墓の隣に埋葬されています。
上野戦争から戊辰の役へ
慶喜が謹慎のため籠ったのは幕府の墓所である上野・寛永寺です。しかし、少壮の旗本たちは一戦も交えずに官軍に降伏することに我慢ができませんでした。それに、幕府から散々に虐められてきた長州藩の奇兵隊、中でも大村益次郎が率いる部隊は西郷・勝の江戸城無血開城に不満で一戦したくて堪りません。
双方に「やりたい」エネルギーが高まってしまったら、どこかで衝突が起きます。
「長州に任せたら寛永寺で謹慎する慶喜に危害を加えるかもしれぬ」
この心配から薩摩兵が先頭に立って上野攻めが始まりました。その先鋒に命じたのが、益満休之助が集めて江戸で無頼を働いた浪士団です。もしかすると西郷に「彼らを消耗戦の先頭に立てて抹殺してしまおう」という意図があったのかもしれません。
思惑通りか、それともたまたまか…益満とその一派は上野戦争で全滅してしまいました。
西郷の打った汚い手、江戸市中混乱策の証拠・証人も消えました。
ここから…長州が主役となって東北へと攻め上がっていきます。榎本武揚が幕府海軍を盗んで占拠した函館の五稜郭まで、各地で戦闘が続きます。