敬天愛人44 田原坂

文聞亭笑一

雨は降る降る 陣羽は濡れる 越すに越されぬ 田原坂 シャカホイ シャカホイ

民謡として歌い継がれてきていますが、この歌は西南戦争の場面を歌っています。

右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上豊かな 美少年

この少年兵士、美少年とうたわれ、焼酎の銘柄にもなったのは・・・いったい誰なのでしょうか。

馬に乗っています。刀を抜いています。陣羽織を着ています。・・・ということは将校格ですね。

少年は一隊を率いて戦っているのでしょう。血刀、敵を斬ったのちの刀を掲げていますから・・・多分、薩摩方の兵士だと思われます。西郷一族の誰か…かもしれません。

・・・と云うのは、田原坂で戦った時の政府軍は、西郷隆盛と山県有朋が訪欧使節団の留守中に制定した徴兵令で集められた兵士たちです。彼らは銃器こそ最新鋭のスナイドル銃を持っていますが刀は銃剣だけです。銃剣というのは鉄砲の先に装着して、槍か、薙刀(なぎなた)のように使う武器ですから刀(大刀)とは使い方が違います。

田原坂

熊本県の植木市にある山を切り崩したような隘路(狭い道)です。福岡、北九州方面から熊本に入るには通過せざるを得ない道路ですが、・・・実はこの道路、戦の名人と言われた加藤清正が、徳川幕府との決戦も想定に入れて切り開いた要塞的な軍事施設なのです。道路の両側が崖になっていて、一列縦隊で侵入してくる敵を上から狙い撃ちできるように設計された場所、山裾を削って道をつけ、そこを通る敵を上から崖下に追い落とすような場所、2-3kmの間に待ち伏せの仕掛けが幾つも連なっています。

政府軍は兵員の数と武器の優秀さを誇り、物量作戦で田原坂を突破しようと試みますが、清正が作った要塞は容易に落ちません。何度突撃しても上からの集中砲火と、兵士たちの腰が引けた所を狙って薩摩軍が斬りこみをかけます。鉄砲の撃ち合いなら圧倒的に政府軍が有利なのですが、接近戦となれば剣道の心得がある薩摩武士団と、百姓町人から徴兵でかき集めた兵では戦いになりません。政府軍の兵士は逃げ惑うばかりでした。

戦いの始めの頃は政府軍の犠牲は膨大でした。山の上から鉄砲で撃たれ、突撃してくる抜刀隊に斬られ、死体の山を築きました。民謡で歌われている風景(?)情景も・・・多分その頃の薩摩軍優勢の頃でしょう。

西南戦争というのは、何の因果か、約300年前に加藤清正が作った軍事施設を両軍が利用し合うような展開になりました。難攻不落を謳われた熊本城は薩摩の大軍に囲まれてもびくともしませんでした。西郷軍も攻め手を欠いて兵糧攻めしか手がありませんでした。田原坂の戦闘の折も、兵力の半分、8000人の兵は熊本城包囲網として残さざるを得ません。従って田原坂で戦っていた薩摩軍は8000です。政府軍が次々に投入してくる2万近い兵員と最新武器を相手に優勢に戦えたのは清正が作った要塞のお陰です。

政府軍は熊本城という要塞に救われ、西郷軍は田原坂という要塞に救われた・・・ということです。

加藤清正がこの戦を見たら…何と言ったでしょうか?

田原坂での山県有朋の戦い方と、その20年後に203高地でやった乃木希典の戦い方…長州軍人の先輩、後輩ですがよく似ています。人の命を軽視するというのか、只、やみくもに突撃を繰り返します。この伝統が太平洋戦争での「万歳突撃」に繋がっていったのかもしれません。

西南戦争以来、陸軍を支配したのは山県を頂点とする長州閥でした。

薩摩人を中心とした海軍と、長州人を中心にした陸軍、この二つが対立しあうようにして競い合い、明治、大正、昭和の軍事政権へと繋がっていきます。

西郷札

同名の、松本清張が書いた小説があります。小説と言っても事実に基づいていますが、戦争には軍資金が不可欠です。西郷軍16,000人と言いますが、この食料の調達だけでも膨大な資金が必要です。戦いの当初は政府の施設を襲って武器、弾薬、食料を強奪しますが、そういう物がふんだんにあるわけではありません。

西郷の軍が、まず最初に熊本城を襲った、攻撃したのは、物資調達という目的もあったと思います。更には軍事基地としての重要性を認識していたからでしょう。

西郷札・・・西郷の軍は紙幣を大量に印刷します。鹿児島の、島津斉彬が創設した工業団地の一角で印刷したのでしょうが、この札を受け取らされる百姓や町人は「ご愁傷様」です。西郷軍が勝つか、それとも講和すれば、何がしかの値打ちはあるでしょうが、敗けたら紙屑です。倒産した企業の株券同様に、何の値打ちもありません。

そうはいっても、戦いの前段では結構、信用がありました。西郷人気もあったと思われますが西郷札を大量に引き受けた商人や、地主もあったようで、投機の対象になっていたようです。政治、軍事とは別に様々な人間模様も織りこまれていきます。まぁ、それが歴史です。

警視抜刀隊

田原坂での戦いの帰趨が、西南戦争を分けました。

徴兵で集められた政府軍正規兵たちは、薩摩の精悍な武士たちの「チェストー!」と斬りこんでくる接近戦に恐れおののいて遠くから銃撃することしかできません。遠距離から山上の敵を射撃する…この時の戦で政府軍が使った弾丸は一日に32万発と伝えられますが、殆ど有効弾にはなっていませんね。雀脅し…のようなものでした。

このままでは、熊本で籠城する谷干城以下の守備隊が飢餓状態に陥ります。

奇兵隊以来、「庶民の兵で士族を倒す」という看板にこだわってきた山県も、背に腹を変えられなくなりました。士族を中心に編成された警察軍の支援を要請します。政府軍が「庶民からの徴兵」であったのに対し、警察は「失業士族の受け皿」という役割を果たしていました。とりわけ戊辰戦争で賊軍とされた藩士たちにとっては、唯一といってよいほどの再就職先です。

銃は持ちませんが、刀を持てば腕に自信のある者たちばかりです。とりわけ会津藩士を筆頭に東北勢は「維新の敵」と復讐に燃えていました。この部隊の奇襲作戦で田原坂の防衛線が破られ、西郷軍は一気に劣勢に陥ります。西郷の息子の菊次郎が負傷したのも、この戦の混乱の中でした。

西郷の末弟・小兵衛、村田新八の長男・岩熊などが戦死したのもこの時です。

この二人などが・・・民謡・田原坂のモデルかもしれません。