いざ鎌倉!! 第1回 伊豆の北条
文聞亭笑一
初回の放送を見ないと・・・どう書いたら良いのか見当がつかないのですが、始めないことには始まりません(笑)。
北条、鎌倉を連想することから書いてみます。
信州・塩田の庄
文聞亭が「北条」に親近感を覚えるのには、なんとなく故郷の香りを感じるからでしょうか。
別所温泉のある塩田の庄は、私の生まれ故郷から美ヶ原高原を越えた向こう側、隣なのです。
とりわけ現代は三才山トンネルができて、実家からは30分もせずに行ける場所になりました。
長野県小県郡、この地は鎌倉時代の軽井沢、別荘地の趣がありました。
奈良朝、平安朝の頃から牧が営まれ、名馬の産地として知られていましたね。
海野の牧、望月の牧などは特に有名でした。
源平時代の武士にとって、馬とは戦車のようなものです。
当時の戦い方は流鏑馬(やぶさめ)のように馬上から駆け抜けながらに矢を射ます。
矢の早さに馬の駆けるスピードが乗りますから、殺傷力は強烈だったでしょうね。
さらに、基本的には1対1です。やるか、やられるか、馬をいかに駆けさせるかで生死を分けます。
鎌倉のような狭い場所で練習するのは難しい・・・ということもあって、武士たちはそれぞれに本領で軍事訓練をしていたのでしょう。
しかし、北条一門のように都暮らし、鎌倉暮らしが長くなると、本領の伊豆には戻りにくくなります。
本領代わりが塩田の庄だったのでしょうか。
別所温泉の常楽寺には「北向観音」と言う有名な仏像があります。
別所温泉から北には善光寺がありますが、関係があるのかないのか・・・知りません。
ともかく、北条一族の別荘地として鎌倉文化が伝わり、仏教美術などが伝来した文化地区でした。
この地が歴史に登場するのは、蒙古襲来に対応した北条時宗の時代です。
今回の物語よりもずっと後の話ですから「オヨビデナイ」話題でもあります。
ずら弁
北条一族と信州の関わりで、もう一つ思いだすのが方言の共通性です。
「ずら弁」などと言われますが、信州と伊豆では「そうずら」とか「いいずら」「だめずら」などと語尾に「ずら」をつけます。
これは東京弁、標準語でいえば「・・・だろう」とおなじで、大阪弁の「・・・やんけ」「…でっせ」、瀬戸内地方の「・・・じゃけん」と同じニュアンスです。
京都弁なら「そうどす」「そうどっせ」でしょうね。
不思議なのは信州と伊豆の間には、甲斐の国や駿河の国があって、そのあたりでは使われていない方言なのです。
どうやって飛び越えてきたのか? 不思議な共通点です。
信州の中でも長野市界隈は「ずら」と「だろう」が混じって「だら」になっていますね。
保元・平治の乱
日本の歴史が世界に冠たることは「3000年の皇統を絶やさぬことである」などと言う歴史学者もいます。
イザナギ・イザナミに始まり、アマテラス・スサノウから神武東征、ヤマト建国など神話を含めて「万世一系」の天皇家が国を治めてきた・・・ということになっています。
確かに、政権のトップには常に天皇がいます。
が、天皇が親政を敷いたのは僅かな期間だけで、日御子(卑弥呼)以来の日本史の中で、天皇親政は奈良朝の期間と、院政の時代くらいしかありません。
残る期間、歴史の大部分は天皇家を神棚に祀りあげて、実力者が政権を担当するという政治形態でした。
現代とて同じことです。その伝統の通りの政治体制です。
国家元首は天皇ですが、天皇に政治的発言権はなく、国民の選挙によって選ばれた三権の長が政治を牛耳る体制です。
天皇家が国政を差配するということは今後ともないでしょう。
保元の乱、平治の乱は、いずれも権威者である天皇家と、為政者である藤原家の内部騒動です。
「院政」という変則な天皇家親政を始めたのですが、政権争いに武力を使うことになってから武士の力が格段に上がり、ついには政権を奪われるに程にまで成長してしまいます。
天皇家や藤原家にとっては予想外の展開だったでしょうが、経済の分野は荘園を管理する武士たちに握られていました。
その武士たちが支配する流通、商業が飛躍的に発展していたのが平安末期の、いわゆる源平の時代でした。
保元の乱で源平の武士たちが政治参加してきます。
平治の乱で平清盛が抬頭し、政権の中枢になります。
ドラマの主役・北条義時が生まれたのは、こういう動乱の時代でした。
北条家・家族関係
― 宗時(兄) 北条家後継者・・・石橋山の合戦で戦死
― 政子(姉) 尼将軍とも言われる
―――頼家、実朝
源頼朝(義兄) 1192年鎌倉幕府開設
伊東八重(義時の初恋の人)
北条時政――― 義時(主人公)
― 阿波の局(妹) 実朝の乳母、家庭教師
牧の方(後妻)
今回はこの辺りの家族関係が賑やかに紹介されるでしょう。