いざ鎌倉 第46回 武士の世

作 文聞亭笑一

いやはや・・・前回の尼将軍の大演説は思いもよらぬ展開になりました。

歴史学者の先生や、有名な小説家が描く通説とはまるで違う展開でしたね。

史書・吾妻鏡に残る尼将軍の演説は、先週号で紹介したとおりです。

頼朝の恩を義とし、上皇の非を糾弾します。

「頼朝公のご恩は山よりも高く、海よりも溟し(ふかし)」のところで、政子がつかえます。

大江広元が書いた原稿の「溟し」が・・・読めなかった・・・と言う演出でしたね。

あんな字は・・・読めませんよ。

教科書にも、歴史小説にも出てきません。

不肖・文聞亭も漢文、漢字には自信がありますが、「溟」は読めませんでしたし、この字をワープロの中から引っ張り出してくるのにかなりの時間を費やしました。

だからこそ、あの部分で演説が停まってしまった理由が理解できたのかもしれません「溟」は深いよりも更に深いのです。深海ですね。

政子が、広元の書いた格調高い原稿の通りではなく、自分の言葉で話しかけたからこそ・・・鎌倉御家人の心を動かした・・・そうかもしれません。

「大義名分」と言いますが、「大義」も「名分」も、事が済んだ後に後付けができます。

「その時」「その場」で、集まった人々の心を動かせるスピーチができるか否か、それが政治家の真骨頂でしょうね。

事をなすは人にあり 人を動かすは勢いにあり 勢いを作はまた、人にあり(海舟)

承久の乱

19万人対2万人の戦いです。

戦略も戦術も戦法もありません。

しかも指導者が素人と玄人です。

19万の方が素人で、2万の方が玄人なら・・・なにがしかの策略が使えます。

真田安房、幸村親子などの戦術家の出番ですが、この戦い、承久の乱は「19万が玄人」で、「2万が素人」です。

これでは戦争ではなく、堵殺場に近いですね。話になりません。

戦場は、まず木曽川を挟んでの対決でした。

墨俣に布陣する上皇軍に正面から10万の東海道軍が迫ります。

そして上流で渡河した武田・小笠原を中心とする中山道軍5万が襲いかかります。

上皇軍は早々に撤収し、瀬田の渡しと宇治川の防衛戦での戦いに切り替えます。

「京は7口、守りに難し」と言われるとおり、大軍を防ぎきれる地形、都市構造ではありません。

「三十六計逃げるにしかず」・・・戦うのは将だけで、兵は逃げます。

上皇方の一般兵士で真面目に戦った者は皆無ではなかったでしょうか。

そして、最後の砦と御所に戻りますが、後鳥羽は門を固く閉ざして中に入れません。

すでに・・・「藤原、三浦などの悪人に強要されて院宣を発行させられただけで鎌倉に他意はない。

早々に謀叛人たちを討伐せよ」と院宣を発行する始末です。

卑怯とか、卑劣とかのレベルを過ぎて「人でなし」「鬼か蛇か」と言うレベルですねぇ。

見捨てられた三浦胤義など上皇方の武士は東寺で戦い、全滅します。

その東寺を攻めたのは・・・三浦義村でした。

梟雄・・・と言う言葉がぴったりとくる陰湿政治家でしたね。

この時、鎌倉軍の将兵は京の都でかなりな悪事を働きました。

略奪、陵辱の限りを尽くしたと言われています。

数十年前の木曽義仲軍の比ではなかったようです。

が、京雀はこの時のことを記録、記憶にとどめません。

後鳥羽上皇以下、高貴な方々を遠慮なく島流しにしてしまうという・・・驚天動地の戦後処理に、「魔王・義時」を恐れて沈黙したと思われます。

語り継ぐことすら・・・クワバラ クワバラ

後鳥羽上皇は隠岐の島に流されます

順徳上皇は佐渡島に流されます

戦争に反対した土御門上皇は土佐に流される予定が、阿波でとどまります。

そして正式に践祚していない仲恭天皇は廃帝となり、後堀河天皇が即位します。

仲恭天皇と書きましたが廃帝に「仲恭」の名がついたのは明治維新後です。

順徳天皇が自由な立場で戦争をしたいがために勝手に退位し、息子を天皇にしたのですが正式な儀式ができずにいました。

4才の天皇?に何の罪もありませんが、天皇は朝廷の象徴ですから、応分の責任を取らされても仕方ありませんね。

しかし、明治政府や右翼はこのことを以て「義時は皇統に介入した極悪人である」とレッテルを貼り、後鳥羽の罪を論じずに義時を糾弾します。

天皇親政、「天皇は神である」を正当化するため、明治の教科書は相当に歴史を歪曲させています。

三代目執権・泰時

長期政権となるか否かは三代目次第・・・などと言われます。

売り家と 唐様で書く 三代目

などという警句が有名ですが、苦労して築き上げた創業者、その遺産を守って組織を維持した二代目、その次が家運を左右する三代目と言う喩えですね。

鎌倉幕府は三代目の実朝で潰れ、執権三代目の泰時で安定政権となりました。

足利政権は三代目義満の時に最高潮を迎え、黄金文化を創りました。

徳川幕府は三代目家光の時に鎖国を行い、260年の安定政権の基盤を確立しました。

鎌倉北条家三代目の泰時、貞永式目(御成敗式目)を制定し、武士の世を確立させた英雄、大政治家として称えるのが通説ですが、「優柔不断、問題先送りで、幕府政治を混迷させた男」という評価もあります。

多分に・・・父親の義時との対比での評価でしょうが、「問題先送り」の傾向があったようですね。

リーダーシップと言うよりは村長さんタイプで、「みんな仲良くWin―Win」を指向したようです。

その優しさにつけこんで、野心を隠さなかったのが叔父の時房と、父の盟友・三浦義村です。隙あらば・・・と、事あるごとに駆け引きをしてきます。

義時亡き後の一時期、泰時、時房、義村の三人が、三つ巴での水面下で権力闘争を繰り返すことがあったようです。

承久の乱は鎌倉方の圧勝、上皇一派を島流しにして朝廷を無力化し、西日本にも鎌倉方式、関東方式の守護地頭制度を敷くという形で一件落着しました。

公地公民ではなく土地の私有化が認められ、武士の所得が増えます。

恩賞として西国に新たに土地を得た関東御家人の二男坊、三男坊が、地頭として西日本各地に移住します。

幕府は約束通りというか、噂通りの大判振る舞いで、朝廷領であった荘園を御家人達に配分します。

農地は西日本の方が先進的で質量共に豊かでしたから、恩賞で配分された土地は莫大な資産でしたね。

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一年間のおつきあいをいただき、ありがとうございました。

来年は「義時」同様に、明治政府から嫌われた男「家康」です。