いざ鎌倉!! 第13回 幕府の柱石
文聞亭笑一
今回の大河ドラマは1180年の鎌倉政権を、ゆっくりと、じっくりと描いています。
その分だけ全国の政治状況に関する説明がなく、頼朝家のホームドラマと言った感覚すらありますね。と言いつつも・・・墨俣合戦で弟が死んでしまったことへの哀惜の念などは描きません。
通説通り「頼朝は冷たい男」として描くのかと思えば、女に弱い?コミカルな性格を見せたりもします。
全く話が変わりますが、大相撲の春場所、大阪場所は「荒れる・・・」と言う冠がつけられている通りに終盤になって荒れに荒れ、結局は若隆景の優勝になりました。
「わかたかかげ」何とも発音しにくい四股名です。老人向けの「滑舌練習」の材料になりますね。
この四股名・・・毛利3兄弟の「3本の矢」にちなむのだと、ようやく知りました。
昭和の小結・若葉山の孫3人が祖父、父の夢を継いで相撲の世界に入ります。
3兄弟が仲良く、力を合わせて相撲に精進するようにと・・・毛利元就の家訓をテーゼとして四股名を付けたということです。
長男 若隆元 毛利元就の長男・毛利隆元
次男 若元春 〃 次男・吉川元春
三男 若隆景 〃 三男・小早川隆景
いやはや…驚くやら感心するやら、3兄弟が広島県出身ならわかる気もしますが、故郷は福島県です。
しかも荒汐親方は中国出身の蒼国来とは・・・よほど毛利家の家訓が気に入って居たのでしょう。
そういえばサッカー・広島のJリーグチームは「サンフレッチェ」でした。
「サン」は「3」とSunをかけた掛詞、フレッチェはイタリア語の「矢」です。
日本語、英語、イタリア語の3か国語の寄せ集めですから、これも「3本の矢」に習います。
そんな、こんな、で・・・今週は毛利家の祖先について触れます。
大江広元
先週あたりから頼朝の内務スタッフとして登場してきました。
教科書では幕府体制の基礎を作った男・・・と云う感じで習いました。
現代でいえば総理府、内閣官房、官房長官と言った役回りでしょうか。
頼朝の意を受けて、それを制度化し、法制化して支配システムに編成していくといった仕事です。
こういう難しい話は、当初、鎌倉に集まった関東の軍事豪族たちにできる仕事ではありません。
上総、北条、三浦、畠山・・・彼らは法律どころか、字を書くことすら苦手でした。
頼朝のもとには、京都時代からの知り合いの下級公家・中原親能が来ていました。
その弟が大江広元です。
兄の誘いで鎌倉へとやってきて頼朝に仕えることになりますが、兄の中原親能が企画よりも交渉事や仲介が得意な文官であるのに対し、広元は制度作り、企画力に優れていました。
鎌倉幕府と言えば「守護・地頭の制度」が基本になりますが、それを頼朝に献策したのが大江広元です。
そのほか、鎌倉幕府が始めた殆どの政策の立案に絡んでいます。
鎌倉体制と言うのは、当初は「頼朝・広家コンビ」で作り、頼朝の死後は「北条義時・広家のコンビ」そして仕上げは義時の子・「泰時と広家のコンビ」で完成させています。広元は78歳まで生きたという・・・当時では異例の長寿が、鎌倉体制に一本の背骨を通しました。 勿論、鎌倉幕府の内政は大江広元一人には手に負えません。
朝廷や院、そして 公家を相手に外務大臣的に動いていたのが兄の中原親能、税制などを担うのが二階堂行政、足立遠元、藤原邦通などです。
中原、大江、二階堂、足立の4人は「鎌倉殿13人」のメンバーでもあります。
毛利家のルーツ
今週は余談のついでに「なぜ大江広元が毛利家の祖先か」を調べてみました。
大江家の跡を継いだのは長男の親広でしたが、後に幕府と鳥羽法皇が争った承久の乱では親の広元は幕府方に、子の親広は官軍(院方)に付き破れます。
家督はたまたま越後に預けられていた4男の長井時広が継ぎ、備後(広島県東部)の守護として赴任します。
そのまた4男が毛利経光、その子の毛利時頼が毛利家初代とされています。
毛利、長州閥は、明治維新後にかなりな歴史の歪曲をやっています。
ですからルーツに関しても信用がないのですが「…と毛利家では言っている」とすれば、間違いではありません。
鎌倉には「大江広元の墓」とされる立派な横穴型墳墓がありますが、これも明治維新後に明治政府が新たに作ったものです。
広元の墓は山中の寂しい場所に五輪の塔が残ります。
稲毛三郎重成
ちょっと紙面が余ってしまいました。
ここまでの所は全くの端役でしかない武蔵の雄・畠山重忠の一族にも、幕府の重鎮となる人物が多数います。
畠山三兄弟などと書いた本もあります。
畠山太郎重忠、都筑次郎、稲毛三郎の三人です。
太郎が秩父を中心に北武蔵、次郎は多摩方面から横浜の都筑辺りまで、そして三郎が多摩川下流域の両岸に勢力を張っていました。
奈良朝以来の橘樹郡衙のあった地域です。
とりわけ三郎は頼朝のお気に入りで、頼朝の仲立ちで北条家の姫、政子の妹を嫁にもらっています。
頼朝の義兄弟・・・にもなりますから、格別の扱いです。
頼朝に従って上洛していた折に、美濃の辺りで三郎の妻が危篤だと知らせが届きます。
頼朝は自分の愛馬を三郎に与えて「すぐ帰れ」と指示していますね。
頼朝は温かい面も持ち合わせています。
三郎は妻の供養にと相模川に橋をかけます。
その功績を大いに喜んだ頼朝は、渡り初めに参加するのですが、帰路、落馬して死亡するという事件が起きます。
頼朝の死因についても諸説頻々・・・この辺りはずっと先の話ですね。
私の住むあたり、神奈川県橘樹郡は稲毛三郎の本拠地なのです。ついつい・・・書きたくなります。