いざ鎌倉!! 第10回 弟たち

文聞亭笑一

今回の大河では先週の終盤に、「黄瀬川の邂逅」と呼ばれる頼朝と義経の対面を、平家物語や源平盛衰記、はたまた義経記などとは違う視点で描いていました。

天下国家のことよりも「一所懸命」、自分の支配する土地(一所)に命がけで戦うという地方武士の本性に裏切られて上洛戦を断念した頼朝、そこへやってきた弟と称する若者・・・彼に期待をかけるしかなかった孤独な頼朝・・・という想定、解釈になります。

関東は源氏の縄張り、源氏系の氏族が多いはずなのですが、全くまとまりがありません。

甲斐源氏の武田は「源氏の統領」を巡って主導権争いのライバルですし、信濃源氏を率いる木曽義仲が、頼朝とは無関係に信州で暴れています。

それよりも関東にあって、源氏一党でありながら、頼朝への敵対勢力となっているのが・・・

上野(群馬)の新田、下野(栃木)の足利、常陸(茨城)の佐竹です。

とりわけ常陸の佐竹が上総、下総方面へ進出しようと軍を動かしますから、頼朝軍主力の上総広常などは後方が気になります。京よりも我が領地です。

頼朝の兄弟

末子の義経が九郎と言う通り9番目・・・9人兄弟です。

長男・悪源太義平・・・「悪」とは強者に付ける尊称のようなものです。

保元の乱から平治の乱にかけて関東中心に大活躍しましたが、平治の乱で戦死。

次男・朝長・・・父・義朝とともに尾張へ向かうが、討ち取られる。

三男・頼朝・・・伊豆に遠島

四男・義門・・・早世

五男・希義・・・平治の乱の敗戦後、土佐に流される。土佐の冠者 以仁王の乱で暗殺される。

六男・範頼・・・遠江で生まれ育つ 蒲の冠者(詳細別途)

これより後が常盤御前の子

七男・阿野全成(今若丸)・・・醍醐寺へ預けられる(詳細別記)

八男・義円(乙若丸)・・・園城寺に預けられ育つ、叔父行家とともに墨俣合戦を戦い、戦死

九男・義経(牛若丸)・・・鞍馬寺に預けられ、脱走して奥州平泉で育つ。

父親は一緒ですからDNA的に兄弟には違いありませんが、ほとんど一緒に暮らしてはいません。

7/8/9の三人は父も母も一緒ですが、幼い頃に寺に預けられてしまいましたから、兄弟らしい感覚は育たなかったと思います。

これから始まる平家との合戦では頼朝、範頼、阿野全成、義経が活躍していきます。

範頼

この人は浜名湖畔にあった池田宿で生まれたと言います。

父が所領の鎌倉と京を往復する途中の宿ですね。

いずれは京か、鎌倉に呼ぶという予定だったのでしょうが、その前に父親が敗死してしまいました。

それが幸いしたのか平氏に知られず、遠州の田舎で源氏ゆかりの「蒲の冠者」として育てられます。

以仁王の乱で騒然となる中、甲斐源氏の安田義定に誘われ、武田信光の軍で平氏と戦います。

ですから富士川の合戦の折などは武田軍の陣営にいたのかもしれません。

頼朝軍への参陣が遅れたのは、甲斐武田との義理の関係かもしれません。

後に、義仲討伐、平家討伐軍の総大将として鎌倉軍の主力部隊を率います。

義経との対比からか、義経の功績を光らすためか、凡将、愚将のような描き方をされますが、どの戦いでも負けていません。

兵の損傷も少なく、確実に勝ちを抑えています。要するに、手堅いのです。

大手・正面から堂々と押していくのが範頼の主力軍です。搦め手に回り、敵の意表を突いて華々しい活躍をするのが義経の機動隊、そういう役割分担でしたね。

これが実にうまく機能して宇治川戦、一ノ谷合戦、屋島合戦、壇ノ浦へと続きます。

範頼が大手の総大将として関東の諸将、兵士の信頼を集めたのは、範頼も諸将も互いに田舎育ちですから価値観や発想、習慣が似ていたからではないかとも考えられます。

範頼の軍で喧嘩や諍いなどがあったと言う記録はほとんどありません。

派手さがない、面白くない・・・。

よって、物語的には凡将、愚将にされてしまいましたね。

後世の小説家の勝手です。

近代の日露戦争で203高地の乃木希典などは凡将・愚将の典型ですが、名将として神社に祀られています。

後世の・・・政治的思惑による・・・勝手です。

ともかく、範頼はまじめ一辺倒で、地味な性格であったようです。

それに引き替え義経の軍では、義経と梶原景時がしょっちゅう言い争いをやっています。

阿野全成(悪禅師)

過去の源平物語にはほとんど登場してこなかった人物です。

恥ずかしながら私には初耳の人物で「全成 Who?」でした。

幼名・今若丸と知って、ああそうかと思いつつも・・・そこから先も全くわかりません。

今回の物語で「主役の義時の、妹の旦那になる男か」とわかって納得しました。

今若丸は洛外の醍醐寺へ出家させられます。

平氏の監視の目がありますから、まじめに勉学に励むしかありませんが、以仁王の乱の報を聞いて身の危険を感じ、醍醐寺を抜け出し頼朝に合流すべくひたすらに東海道を駈けます。

伊豆国に達したところで、石橋山合戦に敗れ御殿場方面に逃げていた佐々木兄弟に巡り会い、相模・渋谷の荘に隠れます。

そして、安房で頼朝が再起したと聞き、佐々木兄弟とともに上総の陣を訪ねます。

全成は政子、義時の妹と結婚し、北条一族の一員として頼朝政権を支えていくことになりますが、彼が育った醍醐寺は洛外といえ京の都にあります。

京育ち、京文化の香りがありますから、田舎者揃いの鎌倉軍団にあっては貴重な存在になったでしょうね。

三谷脚本が「悪禅師・全成」にどういう働きをさせるのか、見所の一つでもあります。

源平合戦での活躍と言うより、鎌倉幕府成立後の幕府内での、政治家としての働きが中心になるのでしょう。

阿野というのは駿河国の地名です。

そこに領地をもらってからの名乗りです。

鎌倉に出仕した始めの頃は、川崎市の登戸周辺にある長尾寺(現・妙楽寺)を与えられて、僧籍のままですね。

寺を与えられると言うことは寺の荘園を与えられると言うことです。

北条家の娘と結婚します。ドラマでは実衣という名で登場しているお転婆娘です。

彼女は後に3代将軍となる実朝の乳母となり、阿波の局と呼ばれることになります。

いつ、どこで、どうして結びつくのか? 皆目見当がつきませんが三谷脚本で解説してもらいましょう。