いざ鎌倉!! 第7回 房総からの再起

文聞亭笑一

今回の源平物語は実に現代的で、登場人物の感情の動きが現代人と変わりありません。

優柔不断でボンボン的な頼朝、北条家第一で自己中な時政、それに登場人物が夫々に自己本位、自己中で動きますから、法規も、道徳も、宗教倫理もありません。

頼朝を「源氏の棟梁」と祀りあげますが、後世の武士道でいう忠誠心とは程遠い感覚ですね。

実態はどうだったのか? 何となく三谷脚本の通り、互いの我欲と我欲がぶつかり合って「勝馬に乗る」ことが生き延びるための選択だったのでしょう。

ドラマではそのことを示すために北条時政の変節ぶりを描きますが、どの豪族も同じことです。

「乱世」とはそういう状況を示す言葉で、価値観が定まらず流動化している状況を言うのでしょう。

それにしても頼朝の優柔不断とやる気の無さ・・・従来からのイメージをひっくり返してくれます。

「弟たちさえ処刑してしまう非情の男、怜悧な政治家」というのが頼朝像でしたからねぇ。はて、さて・・・今後どうなりますやら…。

安房の国

現代の千葉県のことを、古来より房総と言います。

そう、千葉県は上総、下総、安房の三国を含みます。

安房の国の東京湾に面した方が内房で、太平洋側が外房です。

「房」は「安房」の国だからで、内、外と安房を離れた地域まで使うのですが、安房の国は房総半島の先ッポだけです。

館山、勝浦、白浜、鴨川、といった海岸沿いの集落で、海軍力はありますが陸軍・騎馬兵力としては頼りになりません。

安房から陸路で鎌倉を目指して進軍しようとする頼朝にとって、上総、下総の勢力を味方に取り込めるか否かは死活問題でもあります。

安房から動けなければ、伊豆に島流しになっていた時以上に遠隔地に流されたことになってしまいます。

余談ですが、「安房」と言えば・・・後に「安房守」を名乗った有名人が二人います。

真田安房守・・・信玄の愛弟子であり、家康を手玉にとって活躍した戦国大名・幸村の父

勝安房守・・・咸臨丸の渡米から、江戸城無血開城の談判をした・・・勝鱗太郎・海舟

この二人が、なぜ「安房」を名乗ったのか? 何かありそうで興味のあるところです。

安房でもう一つ気になるのが地名です。

勝浦、白浜・・・紀伊半島と同じですね。

そして、勝浦はインドネシア語のカッツーラ(理想郷)にもつながるという説もあります。

土佐の桂浜を含めて、縄文人南方渡来説の延長線上にあります。四国徳島も「阿波」ですねぇ。

上総、下総

古来の国の名前には「上下」や「前後」が使われます。

いずれも京都に近い方が「上・前」で遠い方が「下・後」です。

北陸道では越前、越中、越後、山陽道では備前、備中、備後を思い浮かべていただければわかりやすいと思います。

ところが、上総と下総はちょっと様子が違います。

京都から陸路を辿れば下総の方が京に近いのですが、国の名前が決められた平安時代は湾岸沿いの陸路がありません。

東海道の本道は三浦半島から海上を船で渡り、木更津、君津、富津、上総小湊など、内房の港に通じていました。

そういう意味で安房に近い方の勢力が上総広常、遠い方が下総の千葉常胤です。

頼朝の呼びかけに千葉は300騎を率いて参陣してきます。

一方の上総は参陣しません。上総の方の勢力が大きく、戦力は1千騎ほどだったと言われます。

吾妻鏡などでは1万騎などと誇張して描きますが、当時の人口から見て明らかに誇張ですね。

源平の軍記物は戦力を一桁ばかり差し引いて読んだ方が良さそうです。

上総広常は頼朝の意欲や能力を信用していません。試しに来ます。

ワザと遅参します。「わが兵力の1千騎を見れば、大喜びで迎えるだろう。

そのような小物の部下にはならぬ、神輿に乗せて傀儡として使う」という尊大な態度です。

ところが、頼朝は遅参を厳しく叱責し、会おうともしません。

これを見て広常は「これぞ源氏の棟梁たる男、いずれこの国を制する男だ」と感激し、臣下の礼をとった・・・と吾妻鏡(鎌倉幕府正史)にあります が・・・、作文でしょうね。

実態は広常が思っていた以上に頼朝の兵力が膨れ上がっており、士気も高く、敵に廻ったらヤバいと感じさせたのでしょう。

また、反旗を翻すにも、自分の連れてきた与力豪族たちが源氏に靡いてしまっていたのでしょう。

更には、下総の千葉が源氏についています。

上総が平家となれば南北から挟み撃ちにされます。

それやこれや・・・打算の結果でしょうね。

勝馬に乗る

この言葉がいつごろから使われるようになったのか、定かにはわかりませんが源平合戦の前から武士たちの基本戦略、戦術、戦法の総てに、この言葉が重きをなしていたものと思われます。

戦後に作られる歴史書では、それとらしく大義名分を持ちだしますが、所詮は結果論です。

勝った方に阿(おもね)て、理屈、屁理屈を創作します。うっかりとホンネなどを口にしたら危険人物とみなされて暗殺されてしまいます。

それに兵力ですが・・・白髪三千丈の中国の古文書を嗤えないくらい誇張が多いですね。

一騎とは馬に乗った騎馬武者のことですが、馬の口とり、脇備え、後方に槍持ちなどを従え最低三人(横綱の土俵入りの原型)、普通は5人程度になります。

これに兵糧担当が付きますから5~10人になりますかねぇ。

ですから1万騎と言えば5万人から10万人の大軍になるわけで、当時の人口、経済力からしてあり得ません。

兵力と経済力は比例します。

当時の経済力のモノサシはコメの取れ高です。

千人の兵を動かすにはどれほどの石高が必要か? 最低でも10万石が必要になりそうで、当時の、上総の国の目いっぱいの収穫量ではないでしょうか。

平安時代の稲作は、山間部の扇状地が中心です。

下総などは平地で湖沼ばかりですから米が取れません。

だから千葉は300騎なのです。

上総は山間部の扇状地の多い地形です。

当時の関東最大の穀倉地帯でもありました。

だから上総は1000騎も動かせます。

秩父の畠山・・・ここも山間の盆地です。

穀倉地域です。多くの兵を動かせます。