いざ鎌倉!! 第3回 都の争い 爺と爺

文聞亭笑一

小豪族による伊豆の田舎での勢力争いがあり、恋物語があり・・・と、物語の序盤が展開していきます。

言葉遣いが・・・三谷脚本らしく現代語、標準語ですが、当時の伊豆地方や関東の方言を丸出しにしたら、何を言っているのか理解できないでしょうね。

その一方で、当時は田舎でも京言葉が競って使われていました。

京言葉は一種のインテリ言葉で、これを使いこなせるのは雅な文化人、上流社会とみなされました。

とりわけ女性から見たらナウい言葉を使う若者は憧れの存在になります。

頼朝が女性にモテたのは、源氏と言う貴種の血脈と、京言葉でしょう。

だから・・・大泉「頼朝」と小栗「義時」が同じ言語体系で会話しているのは変なのですが・・・、細かいことは「よし」としましょう。

比企の尼

前回、頼朝と八重の出会いを実現しようと、設営された場所が武蔵の国・比企でした。

埼玉県比企郡と言われても・・・どこだ?と良く分かりません。

東松山市などが含まれますが、昨年の大河の舞台であった熊谷、深谷と秩父の中間でしょうか。

・・・こんな説明をしても、東海以西の皆様には全くわかりませんね。

ダサイの語源になった「ダ埼玉」地帯、埼玉県西部です。

北関東の地理に詳しくない文聞亭にとっては苦手な地域ですねぇ。

ただ、このシリーズの「00号」で紹介した鎌倉街道の上津道が通ります。

上信越の武士団が最初に集結する場所という意味で、軍事的に重要な位置ではあります。

比企尼は頼朝の乳母です。ルーツは不明です。比企氏も、北条同様にルーツ不明です。

頼朝の乳母が、なぜ草深い北武蔵から都に上り、清和源氏の棟梁である頼朝の乳母になったのか? 

比企尼が武蔵出身としたら不思議です。まずありえません。

多分、尼の亭主、息子・比企能員の父が、大番役として京の都に上がった折に、娶った嫁が比企尼でしょう。

だから比企尼は武蔵の女ではなく京女ですね。

「東男と京女」とは今でも残る組み合わせですが、ルーツは平安時代から続く「大番役」制度にあります。

今回の物語の主役である北条義時の父・北条時政も大番役で都に上り、後妻(宮沢りえ)を見つけて連れ帰っていますね。

関東の武者は嫁探しに大番役に出張していました(笑)

大番役

奈良朝以来の、税制の基本は「租庸調」です。

租は税金、供出米・・・田畑での収穫物の奉納です。基本は5公5民です。

庸は勤労奉仕、地方の武士は都に出て、警察官として治安の維持に当たることでした。

大番役と言うのがそれで、奈良時代の「防人」の延長線にあります。

調は地域の特産品を献納することです。

私の住む辺り、武蔵の国・橘樹郡では茜・赤の染料になるアザミの根だったようです。

余談ですが、信州の安曇野の「調」は・・・山葵でもリンゴでもありません、鮭でした。

当時は信濃川・千曲川/犀川にダムがありませんから、安曇野の辺りにまで鮭が遡上していたんですね。

その鮭を、麹などの漬物の技術を使って絶品の味に加工していたようで「安曇の鮭」は奈良朝でのグルメでした。

それはともかく、当時の関東平野で米はとれません。

当時の水田は山裾の高低差を利用した棚田方式が主流でしたから、平坦地は草木の生い茂る原野でした。

それもあって、関東の武将たちの根拠地は山裾が多いのです。現在の米作地帯、都市部とは全く違います。

北関東の利根川、荒川、鬼怒川下流域などは使いものになりません。

大河が蛇行し、分流し、大雨の度に氾濫して人が住める環境ではありませんでした。

南関東も同様です。多摩川、相模川下流域も稲作には向きません。上流から中流域までの傾斜地が穀倉地帯となっていました。

物語に出てくる武将の苗字は土地の名前です。

北条(修善寺)、伊東、河津、土肥、三浦・・・どこも米の採れそうなところではありませんが、当時では穀倉地帯だったのでしょう。

伊豆の国の国府である平坦地の三島あたりに有力武将がいません。

院政・後白河法皇

初回、前回ここまでは全く京都の情勢は出てきませんでしたが、京では後白河と平清盛の蜜月関係が崩れてきています。

「平氏にあらずんば人にあらず」というほどに清盛の実力が突出して、相対的に後白河を中心とする朝廷の力が弱まってきたように見えます。

とりわけ平氏が本拠地を兵庫・福原に移してからは、商業の中心地が京都ではなくなってしまいました。

大番役で地方から上ってくる者たちも、京での役目より福原詣でに精を出します。権力は経済力でもありますから・・・当然の流れです。

都の大天狗・後白河法皇としては、この傾向に苛立ちます。

最高権力者は自分のはずなのに、世間は太政大臣となった清盛と、清盛の孫の安徳天皇を権力者として尊崇しているように見えます。

安徳天皇は後白河の孫でもあります。爺と爺の争いです。

そもそも後白河法皇の「法皇」と言う権威、権力は何なのか…それが不鮮明です。

神武以来・・・神武は存在せず崇神が初代という説が主流になりつつある・・・この国の最高権力者は天皇でした。

が、平安時代になってから天皇の外戚(母の父)となった藤原氏が、幼少の傀儡天皇を擁して政権を握ってきました。

この状況を打破して「院政」と言う形で藤原氏を排除し、皇室親政を始めたのが白河上皇です。

天皇の外祖父(母の父)が天皇を補佐するというのが藤原流、上皇(天皇の父)が天皇を補佐するというのが院政です。

この発明により白河上皇は藤原氏の影響力を抑えていきました。

が、白河さんは我欲が強すぎて、この方式を定着させずに例外を多用して、結果として皇室内の内輪もめを起こし、源氏、平家の武士団を巻き込んで保元、平治の乱を起こしました。

その延長で、皇室の祖父・後白河と外祖父の清盛が対立します。

安徳天皇の父は高倉上皇ですが、祖父の後白河法皇が権力を上皇に譲らず、権力を放しません。この辺り…自ら院政のルール、権威を崩していますね。