いざ鎌倉!! 第4回 頼朝蜂起

文聞亭笑一

伊豆の田舎にも戦雲が漂ってきました。

歴史物語や歴史書と言われる物は「平家、清盛の専横が原因」で民が苦しんでいたのが源平動乱の原因だと書きますが、果たしてそうでしょうか。

確かに・・・平時忠などが「平家に非ずんば、人に非ず」などと放言していた事実はあったようですが、これは「人事権は平家が握った」ということで、後白河法皇を中核とする朝廷勢力が無力化された・・・ということです。

朝廷や寺社の税収が削られ、国家経済が平氏に集中していったということでもあり、一般の国民にとっては雲の上の争い事です。

むしろ京大阪の市民にとっては、清盛が行った貿易拡大により大いに潤ったとも言えます。

以仁王の令旨(りょうじ)

政権から外され収入も減った藤原一族、そして地方の荘園を地方武士に横領されて収入が減った神社仏閣、こういった勢力が平氏の政権を倒そうと暗躍します。

明治以降の歴史かは「天皇は絶対君主で、天皇と対立した者は賊軍である」と言う考え方をとりますが、幕府体制は頼朝の鎌倉幕府も、尊氏の室町幕府も、家康の江戸幕府も、そのような遠慮は全くありません。

むしろ、天皇や公家が政治に余計な口出ししないようにと、「御成敗式目(鎌倉)」「公家諸法度(江戸)」などの法律で、朝廷が身動きできぬように縛りあげています。

象徴天皇と言う考え方に似ています。

そういう点から言うと、清盛には朝廷への遠慮があり、朝廷に甘かったのです。

源氏と平家、清盛と頼朝を「尊皇」という点で比較すれば、尊皇派は清盛で、逆賊が頼朝になります。

こういうところが「勝てば官軍」なのです。鎌倉時代に書かれた平家物語が、必要以上に平家を貶めているのは時の政権に媚びているわけで、それも致し方ありません。

さて、天皇や上皇、法皇などが発する命令書が「綸旨」ですが、親王などの発する命令が「令旨」です。

どれだけ効果、効力のあるものなのかは受け取り側の勝手で、天命に等しい・・・と考える人もいれば、紙きれ同然と思う人もいます。

頼朝も、当初は「紙きれ」と言う受け止め方でした。一種の日和見です。

頼朝のこの態度は正解で、以仁王の乱は簡単に鎮圧されてしまいます。

それは当然で、関西や西日本の武士たちは平家に恩恵を受けるものが多く、武力を持つ不満分子は僧兵や、源氏の残党しかいないのです。

繰り返しますが武士たちは平家、清盛のお陰で寺社の荘園を横領し、私物化し、公家の荘園も私物化できたのです。

訴訟があっても、清盛は武士の味方をしてくれます。

武士にとって院政に戻ることは、私有地の返納を求められることになります。

そんな、損な、呼びかけ(令旨)に乗る者はいません。

三善康信の早とちり

私の友人に「隼人チリ」さんがいますが、三善康信の早とちりが頼朝の決起、石橋山合戦への引き金を引き、歴史の転換点、源平の争乱を引き起こすことになりました。

三善康信・・・「鎌倉殿の13人」の一人です。

康信の母の妹が比企の局で、頼朝の乳母です。

その縁で京都における頼朝の情報員をしていました。

10日に一度は伊豆の頼朝へと手紙を書いていたといいます。

ただ・・・郵便のない時代に、大して金持ちでもない三善康信が、いかにして手紙を届けたのか? 

10日に一度は嘘っぽいですが、「事件のある度に…」でしょうね。

三善康信が以仁王の乱の様子を知らせる「ご注進」で「清盛入道が、源氏を根絶やしにせよと命令した」と観測記事を書きました。

・・・となれば、真っ先に命を狙われるのは源氏の本流・頼朝になります。

これが

「座して死を待つより・・・運を天に任せて・・・」と決起することになりました。

清盛はそのような命令を出してはいません。

「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と叫んだのは、頼朝が伊豆で挙兵したことを知った後です。

三善は公家ではありますが、下級公家なので平氏の監視の目からは外れていたようです。

そのお陰で自由が効いていたのでしょうが、頼朝の挙兵後は出家し、鎌倉へと逃げ、頼朝側近の文官として活躍します。

法律に精しく、算術にも明るいことから問注所(裁判所)の初代判事になっています。

大江広元と三善康信・・・この二人が法整備をして、鎌倉幕府の基礎を築きました。

また、康信の子孫も代々に問注所執事を務め、鎌倉北条政権の中核を担います。

山木判官を襲撃

伊豆の目代・山木兼隆は平氏の一族です。

平兼隆が本名で、伊豆、山木郷に駐在していたので山木兼隆と呼ばれます。

彼は赴任前に都で不始末をして解任されるべきところを、実力者である平時忠の温情で、伊豆の目代(国主代理)として赴任してきます。

伊豆の目代と言う役職は、兼隆にとって不満だったと思います。

都落ちと言うか、左遷された感じでしょうか。

その分だけ・・・伊豆の国人に対して権高くなった事が想像され、それがまた…不人気に繋がり、頼朝たちに討たれてしまう原因になったかもしれません。

山木判官と北条政子との結婚話があり、これを知った政子と頼朝は伊豆山神社に駆け落ちし、神社の庇護で山木の手から逃れた・・・というのが従来からの説ですが、これはどうやら作り話のようです。

山木判官が伊豆に赴任した時、頼朝と政子の間には大姫が生まれていて、すでに二歳(妊娠期間を入れると2~3年)になっています。

頼朝と政子の熱愛を強調しようとした小説ですね。

山木は・・・気の毒にも赴任後4ヶ月で襲撃され、討ち取られてしまいます。

いよいよ、石橋山の合戦ですが、どう描くか? 三谷脚本が楽しみです。

年譜 治承4年(1180) =北条義時18歳=

4月 以仁王の令旨

5月 源頼政決起・討死

6月 清盛が福原に遷都

8月 頼朝が蜂起 山木判官を討ち取るが、続く石橋山の戦で敗れ、安房に逃げる。

11月 清盛 周囲の反対に押されて都を京都に戻す。