いざ鎌倉!! 第5回 石橋山の大博奕

文聞亭笑一

いよいよ源平合戦が始まりました。

・・・というか、源平の合戦は平治の乱以来続いているのですから、頼朝による「天下取りの戦」が始まったというのが正しい表現かもしれません。

テレビでのナレーションでも紹介されましたが「佐々木経高の放った最初の矢が、源平合戦の幕を開けた」と、<吾妻鏡>に書かれます。

伊豆の目代である山木の判官・平兼隆を襲撃したのは、ほんの小競り合い程度に過ぎませんが、頼朝の清盛に対する最初の挙兵ですから、物語の展開の上で大きく扱われますね。

佐々木四兄弟

ドラマでは、佐々木秀義という歯抜けの爺さんが出てきて、何を言っているのか聞きとれませんでしたが、〈佐々木と言えば近江源氏…なぜ伊豆や相模に居るのか?〉と不思議でしたが、平治の乱で領地を没収され、伊豆に島流しになった頼朝に従う形で相模へと逃れてきていました。

相模国渋谷荘に隠れ住み、流人の頼朝に差し入れしていたようです。

息子四人が山木襲撃と、その後の戦に参加し大活躍します。

長男・定綱、後に佐々木本家を継ぎ、本拠地の近江のほかに山陰・数か国の守護となる。

次男・経高、平家追討戦で活躍し、淡路、阿波、土佐の守護となる。

後の承久の乱では法皇方に味方し、追放処分となる。

三男・盛綱、二人の兄ほどではないが、頼朝の側近として幕政に参加

四男・高綱、宇治川の合戦で梶原景季と先陣争いをしたことで有名、僧侶としても高名

佐々木高綱にまつわるローカルな話

ドラマからは大脱線しますが、佐々木秀義爺さんの4男坊、佐々木高綱にはちょっとした縁がありますのでご紹介します。

東海道の川崎宿には佐々木高綱を祀った神社や仏閣が残っています。

「まさか、源平時代の、あの高綱ではあるまい」などと思っていましたが、調べてみると宇治川先陣争いをした「あの高綱」でした。

屋敷があったのは横浜・港北区のようで、屋敷跡には頼朝から拝領し宇治川で活躍した名馬「イケヅキ」を祀った馬頭観音が残っています。

さらに・・・、高綱の墓所が私の故郷・松本にあることを知りました。

信濃国筑摩郡島立村の正行寺と言いますから母の実家に近い所です。

しかも、この辺りの子供たちが通う中学校が「高綱中学」ときいてびっくり仰天でした。

中学生時代には陸上競技などの「郡大会」があり、競ったこともありました。高校の同級生には・・・誰かいたか?

平成の大合併で、今や・・・この辺り一帯は松本市、安曇野市、塩尻市と再編され、また、松本市は懐かしい城下町の町名をなくし、無味乾燥な・・・どこにでもある町名に変更してしまいました。

全く残念ですが、住民でもないものに発言権はありませんね。

故郷は 遠くにありて思うもの 帰るところにあるまじや

石橋山の合戦

私もそうですが、「石橋山ってどこ?」と言う神奈川県人が多数派です。知りません。

小田原から海岸沿いを湯河原方面に向かい、箱根から流れ下る早川を渡ったあたりです。

この辺りには秀吉と家康のツレションで有名な石垣山がありますが、そこから海側に向かった下流でしょう。

源平物語には必ず出てくる場所ですが、名所旧跡と言うほどではないので訪ねたこともありませんでした。

山木襲撃で勢いに乗った頼朝勢は、旗揚げの拠点として想定している鎌倉に向かうべく相模に向かいます。

平家に反旗を翻してしまったからには、鎌倉に反平家の兵を集めて、平家と対抗していくしかありません。

頼りにしていたのは三浦義澄の率いる三浦半島の軍勢でしたが、折からの大雨で増水した酒匂川に遮られて進めなくなってしまいます。

水が引くまで、援軍には参加できなくなりました。

当日は大雨だったようですが、軍略家の大庭は

「三浦が来る前に頼朝の首を挙げる」

と雨中戦を仕掛けます。

10倍の敵ですからとても敵いません。

さらに伊東軍が後方から迫っています。

多勢に無勢、地形を生かして善戦しますが押されてしまいます。

土地勘のある土肥実平の案内で箱根の山中(現在の国道1号が通る山中)へと逃げるしかなくなりました。

逃避行

前からは大庭の大軍勢、後ろは伊東の追撃・・・山中に逃げ込みますが、大庭・伊藤の連合軍は山狩りのように残党狩りを始めます。

まとまっていては敵の目につく・・・と云うので、分散して逃げることになります。

佐々木党は相模の奥に逃げます。

時政、義時の北条勢は甲斐に向かいます。

兄の宗時も甲斐を目指しましたが、途中で発見され討死します。

そして、土地勘のある土肥実平に案内された頼朝は湯河原方面に逃げ、洞窟に隠れます。

吾妻鏡は兵の数を水増しして描いていますが、実際はゼロが一つ多いでしょうね。

それでも大庭、伊東の軍勢は400人もいて残党狩りをしてきます。

鎧兜をまとい、馬に乗って移動したら見つかるのが当然で、大庭の与力・梶原景時に見つかります。

頼朝の「生殺与奪権」を握った梶原景時ですが・・・生かすか(危険だがうまくいけば成功報酬は莫大)、

殺すか(安全だが恩賞は軽微)を天秤にかけ、

賭けに出ましたね。

源氏を潰しても、梶原家は大庭景親の与力としで我慢するしかないのです。

こういう計算ができるということは・・・関東にアンチ平家の勢力が多数存在していたからでしょう。

梶原景時にしてみれば、平家を倒さないまでも「関東は源氏」と独立して、分国支配が可能だと判断していたからだと思います。

関東の空気は朝廷や平家の中央政権を諦め、改革、革新を求めていたのだと思います。梶原景時・・・13人の一人です。