いざ鎌倉!! 第9回 戦い前夜

文聞亭笑一

先週の放送を見て、ちょっとびっくりしました。

義経が富士の裾野とおぼしき場所でウサギを仕留めます。

・・・が、「兎は自分が射たのだ」という地元民が現れ、諍いになります。

「ならば弓の腕でどちらのものか決めよう」となって遠矢の競争になりますが、義経方はとんでもないルール違反で、遠矢ではなく相手を射殺してしまいました。

時節柄とはいえ・・・、まるでプーチンではないですか!!

「判官贔屓」という成語ができるほどの人気者、義経主従のやることにしては随分とえげつないですね。

ウサギ一匹のために、相手を騙して射殺するとは・・・卑怯卑劣、凶悪犯罪です。

脚本家の三谷さんは「判官贔屓」と言われてきた義経像に一石を投ずるつもりなのでしょうか。

となれば、これからの平家との戦いと、源氏内部の人間関係の起伏は伝統的解釈とは全く違って、義経を「兄の言うことを聞かぬやんちゃ坊主・・・野心家」として描くことになりそうです。

私の頭の中にある先入観は平家物語、源平盛衰記、義経記など義経を天才的英雄とするものばかりですが、そういう先入観を取り除いてドラマに没頭する方が面白いかもしれません。

・・・が、まだわかりません。いまだに黄瀬川陣での兄弟の会見がなされていません。

こういう、先の見えないところが三谷脚本の面白さでしょうね。

頼朝と義経、範頼の兄弟は、遺伝子の上では繋がっていたとしても、会ったことのない者同士です。

それも、互いに大人になっていての初対面です。

兄弟の情などは全くないと思いますし、本当に義経本人なのか、「本人確認」の証明すらできません。

父親の義朝が平治の乱に敗れたとき義経、というより牛若丸は生まれたばかりの赤子でした。

義経という名乗りも奥州藤原氏に付けてもらった名前です。

こういう「いかがわしい者」によくぞ平家追討軍の指揮を任せましたね。

それだけ・・・頼朝が孤独だったと言うことでしょうか。

そして・・・上総広常以下の、配下の豪族たちがバラバラの寄せ集めであって、指揮を任せるに足る者がいなかったと言うことでしょうね。

先週の番組で頼朝が鎌倉の縄張り・・・都市計画をやっていましたが、そんな余裕はなかったと思いますよ。

寂れた田舎町に万余の軍勢が入ってきましたから、その陣所をあてがうだけで大騒ぎだったでしょう。

特に大軍勢の上総広常の陣所には気を遣ったと思います。

物語が1180年の9月頃から前に進みませんので、時間が進んでいる方を書きます。

信州国内では木曽義仲を巡る動きが活発化し、義仲軍を早期に潰そうとする平家方、中野の笠原一門の動きに対して、源氏方の村上一族、善光寺の僧兵・栗田などが川中島への渡河地点である長野市若里で戦います。

歴史書は市原合戦と書きますが、これは間違いで市村合戦ですね。現在の市村神社のあたりです。

源平物語は後の京都人が書いていますので、関ヶ原から東のことに関して地名の間違いはザラです。

現在の地名と対比しながら修正する必要があります。

木曽義仲の本拠地と四天王

先週の第08回で「義仲が育った場所は木曽谷ではなく松本平」という説を紹介したところ、彼の地にゆかりのある方々から幾つかの反応がありました。

それに力を得て、考察を続けてみました。

軍事力、兵力は経済力と密接に関係します。

源平時代の経済の中核は米ですから、米が取れなくては兵を集めることはできませんし、遠征となれば兵糧が不可欠です。

これまた米ですね。

「武士は食わねど、高楊枝」というのは江戸期の平和な時代の武士道で、「腹が減っては戦ができぬ」のが元々の定理だと思います。

そして武士たちが戦う動機は「恩賞」ですね。

最低限でも「本領安堵・・・既得権の確保」であり、さらには加増・・・支配地の拡大=収入増です。

先週紹介した朝日村・・・「朝日」という地名は周辺地域の地名から突出しています。

後の世に・・・朝日将軍と呼ばれた義仲にちなんで付けられた可能性もありますね。

全国的に見ても小字の地名は鎌倉時代以後に付けられています。

この朝日村のすぐ側に松本市の今井(村)があります。義仲四天王の一人で、最後まで行動を共にした今井兼平の出身地です。

また、義仲の育ての親である中原兼遠の本拠地もこのあたりです。

さらに、朝日村の隣の洗馬村は「義仲たちが乗馬訓練を行った後に、馬の汗を流した場所」という言い伝えもあります。

さらに今井兼平の兄で、四天王の一人・樋口兼光は塩尻峠を越えた諏訪寄り、辰野町樋口を本拠地にしていました。

そして義仲の妻・巴御前はこの二人と兄妹です。

中原兼遠は、自分の子息と義仲を一緒に育てたと言います。

武芸の稽古はもちろん、教養全般についても常に一緒だったと言います。

乳母兄弟でもありますから、樋口、今井、巴の三人は実の兄弟妹同然に育てられていますね。

このあたりの地形は松本盆地の中央に当たりますから平地です。

今井には現在の松本空港があります。

そしてその近くには、桔梗ヶ原台地と呼ばれる広大な草原が広がっていたと思われます。

馬を育て、乗馬の訓練をするにはこれほどの適地はありません。

そして軍事力としての馬ですが、信濃国には奈良時代から幾つかの牧が置かれ、乗馬の繁殖と調教が行われてきました。

塩尻から松本にかけての北アルプス沿いの地域にはそういった牧がありました。

軍事力としての馬・・・これが手に入りやすいのも義仲軍が精強であった理由の一つでしょう。

さらに、小県から佐久へ進出すると、こちらにも牧がたくさんあります。

その牧を治めていたのが滋野一族で、後の世では海野、真田などの戦国武将を輩出します。

この当時は根井行親を頭に、その息子の根井小弥太、楯行忠が義仲四天王に名を連ねます。

さて、この地域を流れ下る河川は奈良井川です。

名前の通り木曽の奈良井宿の奥から流れ出し、安曇野で梓川と合流して犀川になり、川中島、千曲川をへて信濃川、そして日本海に注ぎます。

このルートは義仲軍が成長しながら北陸道に進んだルートと重なってきます。

奈良井川=奈良井宿=木曽谷・・・後世の軍記物では、そんな勘違いが起きたのかもしれません。

巴御前の余生を過ごした場所 群馬県渋川市の木曽三社神社

義仲の妾とされる巴御前ですが、実は正妻であったのではないか・・・といわれます。

正妻が軍旅に同伴することはない・・・ということから軍記物では側室、妾などと書きますが、ほかに義仲の妻にふさわしい女性が見つかりません。

戦の後、巴御前は渋川市北橘村で義仲の子を育てながら余生を過ごしますが、そこに故郷から義仲が崇敬していた木曽三社神社を勧請します。

三社とも木曽ではなく、松本盆地の社です。

  岡田神社・・・松本市岡田(松本から上田、佐久に向かう善光寺街道への北出口)

  沙田神社・・・松本市島立(松本盆地の中央、梓川との合流点)

  阿礼神社・・・塩尻市(塩尻峠への登り口、諏訪への南出口)