いざ鎌倉!! 第8回 義経登場

文聞亭笑一

いよいよ源平合戦のヒーロー・源義経が登場してきました。

平家物語や源平盛衰記などの戦記物は戦いを華々しく描くために、英雄の活躍を誇張しますが、その分を差し引いても・・・、義経が軍事の面で天才的だったと見えます。

それがまた常識的戦術家の梶原景時と合わないところで、ことごとく意見が対立していったのでしょう。

人と人の間には「相性」なるものがあって、こればっかりはどちらかが我慢するしかありません。

天賦の体内時計というのか、活動のリズム感、右脳の働き方、第6感など・・・言葉に表せない「なにか」が合わないのでしょう。

往々にして天才的スポーツマンは言葉にならない「こつ」のようなものを持ちます。

よく引き合いに出されるのが、野球の長嶋茂雄や、ゴルフの青木功で「わかんねぇかなぁ、こうするんだよ、こう!」といわれても・・・凡人にはわかりません。理屈抜きの世界です。

義経と言えば我々世代は

♫ 京の五条の橋の上 大の男の弁慶が 大きな長刀振り上げて 牛若めがけて斬りつける

という童謡で子供の頃から知っていました。

これを博多人形風に石像にしたものが五条大橋の西詰めにあります。

京都時代に単身赴任していたマンションの眼下でしたから、よく目にしました。

実にほほえましい姿ですが、弁慶も義経も戦いの連続の人生です。

ところで義経が頼朝の陣に駆けつけた黄瀬川ですが、最近では柿田川という方が、知名度が高いようですね。

富士山の湧き水が流れる清流です。

そしてこの川が駿河国と伊豆の国の国境です。

さて、1180年の夏から秋、激動の時代を表にします。

表(クリックで拡大)

頼朝が鎌倉にいる間に、畠山重忠や梶原景時が頼朝に臣従してきます。

次々と味方に裏切られ、大場景時は処刑され、伊東祐親も討ち死にします。頼朝の伊豆が精算されていきます。

富士川の戦い

頼朝の蜂起に怒った平清盛は、孫の平維盛を総大将として頼朝征伐のために東下させます。

10万の大軍・・・などと軍記物は書きますが、清盛が出動を指示した武将たちがそれぞれフル装備で、全勢力を投入していたら10万人になったかもしれませんが、公家化していた西日本の平家の郎党には厭戦気分が横溢していました。

武将にやる気がありませんから、家来もついてきません。

不参加というわけにも行きませんので「おつきあい程度」に代理を出陣させます。

この点は明治維新の時の各藩の殿様と同じですね。

殿様は都合よく病気になります(笑)

維盛が出陣しても兵が集まらず、軍勢を揃えるために三井寺で3日間待ったとも言われます。

表でもおわかりの通り、清盛の命令があってから出陣までに17日間もかかっています。

頼朝を舐めていた・・・ということもありますが、戦意・士気という点では「ない」に等しく、物見遊山的雰囲気での進軍になっていたようです。

さらには、この年の西日本は飢饉で、兵糧不足であったことも士気低下の原因です。

進軍途上の近畿、東海で兵力、兵糧をかき集め、寄せ集めた軍勢ですから統率がとれません。

富士川の戦いは頼朝と平家の戦いだったように勘違いしていましたが、富士川を挟んで対陣していたのは武田信義2万と平維盛6千です。

武田の別働隊、一条忠頼の軍が夜陰に紛れて渡河作戦を実行しようとしたのですが、これに驚いた水鳥が騒ぎ、それを夜襲!と勘違いした平家軍が大混乱に陥ったと言うことのようです。

元々、維盛、忠度の平家首脳陣は対岸に布陣した武田軍の兵数を見て「撤退」を準備していたとも言われています。上も下も・・・やる気がありません。

しかも・・・平家は「使者を斬る」という当時の戦争のルール違反? マナー違反?をやっています。

夜襲というのも当時はマナー違反の卑怯な手ですが、自分たちが先に違反をしてしまっていますから、敵に夜襲される不安を強く持っていたともいえます。

そういう不安感、罪の意識のような心理が水鳥の羽音に大きく反応したのでしょう。

大半の平家軍は京を目指して逃げます。

そして駿河や遠江の兵の数百騎は「お味方に・・・」と武田に寝返ってきたとも言います。

要するに地方の武士にとって「親方」は源氏でも平家でもどっちでも良いのです。

「本領安堵」 つまり、自分の権利を守ってくれるのなら義理も人情もありません。勝ち馬に乗ります。

頼朝軍の撤退

富士川の戦いで平家を破ったのは武田信義と息子の一条忠頼です。

武田は頼朝の指揮下に入って京を目指す気など全くありません。

甲斐の山から出てきて、駿河や遠江の海を得て満足してしまったのか、先には進みません。

むしろ甲斐の後方で暴れている木曽義仲が気になって前に進めなかったのかもしれません。

300年後の子孫・武田信玄も遠江まででした。

頼朝は関東の軍を引き連れてそのまま京へ進軍したかったのですが、千葉や上総、それに三浦から猛反対されます。

関東が固まっていない・・・というのがその理由で、地方豪族にとっては中央政権の動静より、自分の領地を固める方が優先します。

この当時、北関東は常陸の佐竹、下野の結城や足利と言った豪族たちの帰趨が不明確でした。

佐竹や結城と境界を接する千葉、上総が反対するのも当然かもしれません。

このことが、結果的に木曽義仲に京への一番乗りを許し、源氏同士の戦いをすることになります。

木曽義仲の動静

この時期(1180年)に関東の源氏は頼朝、武田、義仲三つの集団が独立して動いています。

共通するのは「反平家」だけで、連携するどころか本家争いとでも言うのでしょうか、互いを牽制し合っています。

木曽義仲ですが、現在の木曽谷で育ったと思い込んでいましたが、この当時、木曽谷は美濃国です。

源平盛衰記には義仲が育った場所は「信濃国安曇郡に木曽という山里あり」と記されていますし、最近の研究では松本市の近郊、長野県東筑摩郡朝日村木曽部桂入で育ったという説もあります。

確かに・・・木曽谷のあたりでは世間が狭すぎます。

蜂起するにしても、兵糧をはじめとする経済力がありません。

筑摩・安曇野の松本平・・・朝日村はその西の端になります。

蜂起後の戦績を見ても小見(麻績)の戦い、会田の戦いなど東筑摩郡で戦っています。

会田村というのは、その後合併した4か村の一つ、現在の四賀村の一地区です。

松本から上田に抜ける街道の最初にある村です。

その後の義仲の行動を見ても木曽の兵を中核として小県の兵、佐久の兵、上州の兵を加えて大軍となる・・・という流れですね。

太平洋に流れる木曽川流域ではなく、日本海に注ぐ信濃川流域、奈良井川、梓川、犀川、千曲川、信濃川・・・そういったルートで北陸へと攻め込んでいます。

「川の流れのように」勢力を拡大していきます。

義仲の蜂起当初の戦績

頼朝のライバルとなる木曽義仲について、ドラマではその活躍に触れることも少ないと思いますので、ここで整理しておきます。

1880年9月 麻績の戦い、会田の戦いで信濃南部の平家勢力を圧倒

父の地盤であった上州へ向かう。木曽、佐久、上州の兵を集め小県・依田城を本拠にする。

同じ頃、源平の豪族同士の戦闘があり義仲に支援を求める(市原合戦・長野市若里周辺)

1881年6月 平氏の命で越後の城助職が義仲討伐に出陣 川中島、横田河原で対峙する

この戦いは、義仲方の奇策が成功し、城の軍勢は大敗9000騎が討たれたと軍記は言いますが、多くて千騎でしょうね。

それにしても大損害です。命からがら逃げ出した城助職ですが、越後の兵がことごとく義仲に寝返り、本拠地の会津に逃げますが、そこも追い出されて滅亡します。

この勢いで、越中や能登の豪族たちも源氏方につきます。

源平の戦でも川中島合戦があって、その勝敗で木曽義仲の軍が一気にふくれあがったんですね。

そこまでは知らずにいました。市原合戦のあった長野市若里は私が学生時代を過ごした校舎が建つ場所です。

これまた「へ~!!」

川中島での義仲軍の奇策ですが、実に単純です。

源氏の白旗を隠し、平家の赤旗を立てて援軍を装って千曲川を渡ります。

渡ったのは「雨宮の渡」だそうですから、戦国時代の信玄・謙信と同じです。

信濃の援軍がやってきた・・・と城軍が安心していると、全軍渡り終えてから一気に旗を白に変えて奇襲してきました。

城軍は大軍ではありましたが油断しきっていたのと、遠路の遠征で疲れていたのとで逃げ惑うしかありません。

さらには源氏方の知り合いを頼って寝返り、手土産に昨日までの友軍の大将の首を差し出すといったことまで頻発しました。

こういう節操のなさというか、サバイバルのための「何でもあり」を認めてしまったことが、後々、政権を担うことになってから、京の都での乱暴狼藉につながってしまいました。

とはいえ、この種の鞍替えを認めたからこそ急速に軍勢が拡張し、その後の倶利伽羅峠をはじめとする平氏との戦いに勝ち残ったともいえます。