いざ鎌倉!! 第12回 そこまでやるか

文聞亭笑一

まさか、まさかNHKが大河ドラマで・・・あのようなシーンを放映するとは思いませんでした。

墨俣合戦と呼ばれる源平合戦の前哨戦で、頼朝の弟・八郎義円が討死する場面です。

何度も何度も水につけて溺死、虐殺する映像・・・まるでチンピラヤクザの虐めではないですか。

あんな場面を青少年に見せてはいけません。

演出家もなぜあそこまでリアルに描く必要があるのか、理解に苦しみます。

三谷脚本に関しては肯定的にとらえていましたが、あんな場面を敢えて映すとなると・・・一気に熱が冷めてしまいました。

義円(乙若)の墨俣合戦での討死

源平時代から戦国期に至るまで、戦争に鎧兜はつきものです。

とりわけ源平の時代は弓矢戦が中心でしたから、鎧は鉄の小札を何枚も継ぎ合わせた構造でした。

当時は、現代のような、精巧な鉄板の圧延技術がありません。

一枚一枚、槌で鍛えます。

従って鉄の小札一枚が厚くなります。

厚くなるということは、重くなります。

鎧全体では10kgを超えていました。

この鎧を着たまま川を渡ります。

墨俣合戦では木曽川を渡ります。

源氏軍、行家・義円の軍は尾張や美濃源氏の勢力を中核にしていました。

木曽川の東に陣取っていました。

行家は平家軍に奇襲をかけるべく夜間に川を渡ります。

翌朝、平家軍は渡河して衣服の濡れている者は敵の源氏であることに気づき、反撃に移ります。

奇襲したつもりだったのが・・・バレてしまい、平家の圧倒的な兵力に破れ、追われ、追われて木曽川を渡って逃げたものと思われます。

進軍の場合は案内人を付け、浅瀬を選んで渡りますが、敗走する場合は浅瀬を選ぶ余裕などありません。

我先にと川に飛び込みます。

追っ手も川の中まで入って追いかけたら、自分が溺死する恐れがありますから川岸で止まります。

うまく渡れたら逃げ遂せますが・・・流れに足を掬われたらお陀仏・・・溺死者が沢山でます。

立派な鎧、重い鎧を着た武士ほど死ぬ確率が高くなります。

僧兵育ちで、乗馬の訓練をしていなかった義円・・・水流に抗しきれず、流されて溺死したと思われます。

首を取られて晒されたというような記録がないということは・・・遺体が発見されなかったのかもしれません。

そこまでやるか? 悪党・義経

義経といえば源平物語のスーパーヒーロー、正義の味方で不死身、平泉から逃げおうせて蝦夷地に渡り、さらに大陸に渡ってジンギスカンになった・・・などという荒唐無稽な伝説の英雄です。

「そうではない、能力はあっても組織人としては課題があった」というのが現代的解釈ですが、あそこまでの「ワル」に描きますかねぇ。

兄の書き置きを破り捨てて知らぬ顔の半兵衛、しかもその兄は父も母も同じ実の兄弟です。

今若丸、乙若丸、牛若丸の・・・乙若と牛若です。

乙若が鎌倉にまで来て頼朝に挨拶したという設定に無理がありましたね。

乙若・義円は園城寺の僧兵とともに、そのまま墨俣合戦に向かったという通説が正しいと思います。

ほら吹き男とも言われる行家の「源氏の正統性」を装う道具にされた可能性もあります。

いずれにせよこの時点では、反平家の勢いが東海、近畿には及んでいませんでした。

さて、問題の義経ですが「黄瀬川の邂逅」から「義仲討伐」の先陣として鎌倉を出立するまでの約三年、この期間に何をしていたのか・・・あまり記録がありません。

公家衆の日記には「義経はプレーボーイで女漁りばかりしていた」というような記事もありますが、それは京都に上ってからの話でしょう。

ただ、当時の地方、田舎には「貴種信仰」といった観念があり、源平藤橘といった由緒ある公達の御落胤を授かろうと血統の良い公達を招待し、娘との一夜を提供するといった風潮がありました。

うまくいけば・・・名もなき農民が「我が家のルーツは源氏である」と家系を飾ることになります。

義経が・・・一種の種馬として・・・武蔵、相模あたりを徘徊していた・・・という小説もあります。

野生児の義経が鎌倉の狭い空間で政治活動をしていたとは思えません。

弁慶や佐藤兄弟を従えて武蔵、相模のあちこちを放浪し、異才や、優秀な武芸者を集めていたのではないかと想像します。

宇治川の戦いから始まる義経の大活躍は、優秀な部下がなくてはできません。

今回の脚本は「狭い鎌倉」にこだわりすぎでしょう。

清盛の死因

清盛入道は「高熱を発して死んだ」ということになっています。

古典では「後白河の呪詛」だとか、「南都の大仏殿を焼いた祟り」とか、「栄華を誇った報い」とか、宗教的、精神世界の原因に誘導しますが・・・、科学技術教育を受けてきた文聞亭からすれば、一切無視ですね。

そりゃぁないよ・・・となります。

ところが先日、宗教系の活動をしている知り合いから

「あなたは宗教を信じないというが、科学技術が正しいと信じているのも信心で、科学技術教だよ」と指摘されました。

「ん?」と答えに詰まり、反論しようとして反論の材料が見つかりませんでした。

科学技術、実証主義・・・を宗教と呼ぶかどうかは別として、それを「信じる」という行為は、宗教的ではあります。

それはさておき、平家物語や源平盛衰記、愚管抄や吾妻鏡などに記されている「症状」から、現代風に病名を探ろうという研究があることには驚きました。

マラリア説、肺炎説、髄膜炎説・・・いろいろありますが、マラリア説が本命ではないかと思います。

平家の勢力「平家にあらずんば人にあらず」を築いた財源は外国との貿易です。

清盛の業績は「福原(神戸)遷都」「音戸ノ瀬戸(呉)の開鑿」「厳島神社の造営」など、瀬戸内航路の整備と海外貿易による財源を基盤にしていました。

海外との交易は利益ももたらしますが、伝染病ももたらします。

南方の呂宋(フィリピン)や、シャム(タイ)天竺(インド)の風土病であったマラリアが中国に伝わり、それが福原に伝わるのは時間の問題です。

マラリアは蚊によって媒介されます。

「清盛は高熱を発し、誰も側に近寄れないほどであった」と史書には記録されていますが・・・、清盛の側には日本人医師、中国人医師などマラリアを知っている医師がいたはずです。

彼らは、清盛への治療もさることながら、「伝染させてはいけない」と、「清盛の周辺を蚊帳で覆い、誰も近づけなかった」のだと思います。

「熱くて」ではなく「危険だから」近づけなかったのだと思います。

それを命じたのも、広範な識見のある清盛自身だったと思います。

その後、源平合戦の期間を通じて「熱病が流行した」という記録がありません。

医師の処置が正しかったのだろうとも思いますし、清盛の発病したのが冬場(2月)なので、マラリア説や、伝染病説にも疑問が出ます。

冬場に蚊は飛びません、刺しませんからねぇ。