いざ鎌倉 第41回 女人入眼

作 文聞亭笑一

先週の番組では「唐舟の進水」が最大のイベントでしたが・・・どうも納得がいきません。

由比ヶ浜に足場を組んで建造したと言いますが、由比ヶ浜は遠浅の海岸です。

平家など西国勢の軍船が容易に接岸できない地形・・・であればこその鎌倉なのです。

その浜で、大型船を造船するというところから現実的ではありませんね。

陳和卿が造船のことがわかっていたのかどうか?

さらに曳き船で進水させようとしていますが、水深2,3mないと舟は浮かばないでしょう。

最低でも海岸から20mほど沖に引っ張らなくてはなりません。

背の立たないところで、どうやって引っ張るつもりだったのでしょうか。

ともかく・・・およそ技術的でない、現実性に欠ける映像でしたね。

さらに、時房が舟の設計図に細工をしたなどという物語を挿入していますが、細工をしようがしまいが、進水には失敗します。

北条が邪魔をした・・・と言いたいのでしょうか。

公家と武士、神仏

鎌倉幕府の創設を「武士の世の始まり」とし、貴族社会から武士の世への革命・改革であると歴史教科書は教えます。

だから・・・頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年を、時代の境目として暗記させられました。

「1192作ろう・鎌倉幕府」でしたね。

ただ、この時できた鎌倉幕府は東国だけの幕府治世で、西国には公家社会の荘園の方が多く残っていたのです。

鎌倉の施政は「土地の私有化」を認めますが、西国は公地公民の荘園制度が生きていました。

天皇領だけでも膨大です。

だからこそ、朝廷に発言力があります。

この朝廷や公家たちの持つ荘園を取り上げてしまったのが承久の乱(1221年)です。

この事件こそ革命、改革に相当する事件ですし、3代目執権・泰時が作った貞永式目(1232年)・・・

これこそが武士の世を確立させた事跡でした。

武士の世・・・は1221年からだと考えます。

宗教も、階層によって違いが出ますので整理してみました。

かなり荒っぽい分類ですが(笑)

・・・鎌倉時代以降に神道も仏教も大きな変化を遂げています。

鎌倉時代というのは日本における「宗教革命」でもありました。

仏教が核爆発しました。

そして次に来た宗教革命が明治維新の「国家神道・廃仏毀釈」でした。

更に敗戦によって国家神道が否定され、憲法が保障したのが「信教の自由」です。

海外からの流入を含め、多岐、多様な宗教ができました。

オーム真理教とてその一つです。

位打ち(官打ち)

朝廷が新興勢力を骨抜きにするための権威的武器・・・それが位打ちです。

奈良町以来の衣冠十二階を発展させて、公家社会を「別世界」とするために醸成してきた宗教的権威を持った制度ですね。

この位というのがないと政治には参加できませんし、人権すら認めてもらえません。

位階の制度は奈良朝からですが、当初9階層だったものが「正」「従」の二つに分けて18階、更に4位以下を「上」「下」に分けて12階・・・併せて30階にもなります。

フツウの武士が位階を一つあげてもらうためには、鎌倉幕府に献金し仲介してもらい、更に、朝廷に大量の献金と御礼金を支払って、やっと手に入ります。

ここらは6位以下の下層部の話で殿上人と呼ばれる5位以上の位は「目立った手柄」がないともらえません。

この位階に加えて官職と呼ばれるものもあります。

摂政、関白を筆頭に大臣、納言、将、大夫、助 佐 亮 介 輔、頭、尉 守・・・

朝廷の、実朝に対する位打ちは「これでもか!」と言うほどのけたたましさです。

もう少し先の話になりますが・・・1218年の位打ちは特に見え見えでした。

1月 権大納言、

3月 左近衛大将、

10月 内大臣、

12月 右大臣・・・

と昇進させてきます。

後鳥羽上皇から実朝へのラブコールでありますし、実朝の雅(みやび)指向を刺激して義時・広元の政所との仲を裂こうという陰謀でもあります。

宮将軍

実朝と坊門姫の間に子ができない、そして実朝は側室を拒否して・・・実朝直系の後継者の誕生は絶望的になりました。

実朝自身の発案・・・だったか、それとも坊門姫やその取り巻きの発案だったか・・・「後鳥羽上皇の皇子を養子に迎えて政権を禅譲する」・・・後の世で言えば大政奉還というアイディアが出てきます。

「将軍は所詮、傀儡である」と考える義時・広元コンビも反対しません。

敢えて言えば・・・成人の皇子より、幼児の皇子が望ましい・・・と言ったところでしょうか。

この案の実現に向けて政子が動きます。

表向きは「実朝の健康のため」と称して熊野詣でに出かけます。

本命の目的は「宮将軍」の実現に向けて上皇との掛け合いなのですが・・・直接交渉などできません。

仲介役は藤原兼子、後鳥羽院の乳母です。

鎌倉代表の政子(62才)と朝廷代表の兼子(64才)の交渉ごと・・・これを見守った慈円(愚管抄の作者)は、二人の交渉を「女人入眼」と表現しています。

そこからタイトルを取った小説があります。

大仏は眼が入って始めて仏になるのです。男たちが戦で彫り上げた国の形に、玉眼を入れるのは、女人であろうと私は思うのですよ。

  (永井紗耶子・「女人入眼」)

この小説は大姫入内を扱っていますが、慈円が「女人入眼」と書いたのは宮将軍の交渉です。

交渉の甲斐があって・・・冷泉宮・頼仁親王が候補に選ばれます。

上皇も了解します。

交渉の成果に、義時ら政所組も「やれやれ」と安堵しますが、その一方で不安の芽が伸び始めていました。

政子が京から呼び戻した公曉、頼家の子をけしかける者たちがいます。

公曉の父は二代・頼家、母は三浦義胤と再婚して鎌倉にいます。

「本来ならば将軍を継ぐべきはあなただ」と実朝や義時を「親の敵」と吹き込みます。

しかも公曉は身長が180cmを越える大男だったとか・・・。仁和寺で修行中の公曉の弟・禅暁の存在も厄介です。