いざ鎌倉 第29回 鬼の霍乱

作 文聞亭笑一

鎌倉殿の13人で始まった合議制ですが、梶原景時が討たれ、三浦義澄と安達藤九郎が病死して、今や10人になりました。

頼朝時代の御家人代表(保守派)と頼家とその側近たち(革新派)の確執は続きます。

さらに、保守派の中でも北条と比企の権力争いが・・・頼家の後継者を巡って・・・陰に陽に政局を動かします。

頼家が20歳代前半、二代将軍になったばかりだというのに、早くもその後継者を巡って駆け引きをするというのですから異常ですね。

それだけ、鎌倉幕府は組織としてまとまりがないと言うことでもあります。

それがまた・・・京の公家から見ると付け入る隙になり、幕府を消滅させて天皇親政へと戻したくなる誘惑に駆られます。

阿野全成(ぜんじょう)

頼朝の弟です。

頼朝の父は晩年に常盤御前との間に3人の男子を作ります。

今若、乙若、牛若・・・常磐は清盛の妾になる条件として3人を出家させ、その命を保証させます。

その今若が阿野全成です。

政子の妹の亭主ですが、他の弟たちのように還俗して武士には戻らず、出家したまま僧として幕府に仕えてきました。

その甲斐あって(?)頼朝の兄弟たちが次々と誅殺される中で唯一、ここまで生き残ってきました。

さらに、妻の阿波の局は兄嫁・政子の妹で、頼朝の次男(後の実朝)の乳母でもあります。

頼朝ファミリーの中にあっては中核に位置します。

1203年2月、阿野全成は謀叛の疑いで突如逮捕され、常陸に送られます。

そして、比企義員の意を受けた八田知家に殺害されてしまいました。

今回のドラマでは「頼家を呪詛した」という説を採っていますね。

このあたりは、後の世の推論、小説の世界ですから何が本当かはわかりません。

「頼家の長男が八幡宮の参詣をする際に、奉納の舞いを踊る巫女に神がかりさせ、不吉な予言をもたらした」とか、「阿波の局が実朝を後継者にすべく工作をした」だとか、いろいろあります。

いずれにせよ、頼家にとっては唯一の叔父、それを煙たく感じてしまうところが・・・頼朝の子育ての失敗でした。

息子の教育を乳母・比企家に任せすぎました。

などと・・・偉そうに頼朝批判をしますが、筆者も子供の教育は妻に一任して「指導した」という記憶がありません。

罪滅ぼしに孫の教育を・・・などと余計な手出しをしては、叱られます(笑)

仕方がないので・・・地域の小学校に出かけて、郷土史などを語り継ぎます。

子供らの 輝く瞳に引き込まれ 加瀬山ロマンに熱弁奮う

ともかく、頼朝の兄弟は阿野全成の死を以てすべて消えました。

さらに、京の寺で修行中だった全成の息子も、頼家の命で暗殺されてしまいます。

鎌倉幕府にあって、源氏の血を引く者は・・・頼家とその子息(4男一女)、それに実朝しかいなくなりました。

頼家重病

阿野全成の謀叛事件以来、頼家の健康が優れなくなりました。

呪詛・・・祟り・・・などと古文書は伝えますが、なにがしかのストレス性疾患でしょうね。

将軍職は認められているが政治の実権はない、何かやろうとしてもことごとく長老たちに反対されて実現しない・・・こんなことの繰り返しです。

その上、好きな蹴鞠に没入すると、それがまた「武士の嗜みを忘れた公家好み」と批判されてしまいます。

自分をわかってもらえない若者の焦り、これが病原菌ですね。

蹴鞠ですが、テレビで見る限り、現代のサッカー少年たちがやっている「リフティング」のことですね。

リフティングは一人でやっていますが、これを大勢でやり、幾つまで落とさずに続けられるかを競うゲームのようです。

武士にあるまじき公家の遊び・・・と、守旧派は批判しますが、チームプレーでもあります。

互いに呼吸を合わせて、阿吽の呼吸で玉を回し、一人に負荷がかからぬようにしながら「落とさない」のには神経を使います。

チームプレー・・・、仲間の結束、政治の要諦でもあります。

ただ、頼家にとって拙かったのは、京から呼んだ蹴鞠の先達(コーチ)の公家が、スポーツ以外の余計なことにまで口出しをして、御家人たちの顰蹙を買ったことでしょう。

とりわけ頼家の側近である北条一族の二人を改名させてしまいます。

北条家・後継者の「時連」を「連の字は卑しい」などと言いがかりを付けて「時房」に義時の嫡男・頼時を「頼家様の『頼』の字を使うなどおこがましい」と「泰時」に

そういう、頼家にとっては些細だったことが、暴君、横暴・・・などの噂話になって広がってしまいます。

残念なのは、そういう判断をする際の参謀がいなかったことでしょうね。

大江広元以下、幕府の官僚たちは所領削減提案以来、頼家には批判的な態度をとります。

「将軍」なのですが、将軍らしいことのできない頼家が発病します。

頼家の病状について詳しく掲載した文書はありません。文献のほとんどは後世の推測記事で、神罰、祟り、因果などの宗教的な言葉が並びます。

元気凛々だった若者の、突然の発病ですから、神仏を持ってくるしか説明できなかったのでしょう。

3月に発病します。

食が進まず寝込みます。

暖かくなった5月には回復して、富士へ狩りに出かけたりしていますが、7月になると病状が再発し、重症化します。

そして8月には危篤騒ぎになります。

なんとなく・・・拒食症の症状も伴ったストレス性胃腸炎ではないかと思います。

胃潰瘍、十二指腸潰瘍も併発していたのかもしれません。

ストレス過多による胃酸の出過ぎが原因ではないでしょうか。

夏場、酷暑で体力が消耗してくれば、22才の若者でも生命力の限界になりかねません。

8月に入ると危篤状態に陥り、周りが大騒ぎを始めます。そう、後継者問題が動き始めます。

さて、今週はどこまで行くのか? わからないのでこの辺で留め置きます。

鎌倉街道

『いざ鎌倉!』と東国武士たちが騎馬軍団を揃えて駆けつける道、騎馬高速道路のことを『鎌倉街道』と呼びます。鎌倉から3筋が北に向かいます。

上津道・・・上信越道

中津道・・・東北道

下津道・・・常磐道

この下津道が、我が家の側を走ります。

綱島→加瀬→鹿島田→平間の渡→品川