いざ鎌倉 第23回 鎌倉開府(その2)
文聞亭笑一
鎌倉開府のその2です。
後白河崩御
頼朝が「日本一の大天狗」と名付けた後白河法皇が亡くなります。
この人は、源氏と平家を手玉にとって、政治を弄んだ(もてあそんだ)人でした。
ゲーム感覚だったでしょうね。
天皇家の祖先ではありますが、この人と、その祖父さんの白河法皇、更に後の後醍醐天皇はあまり好きになれない人物です。
天皇制・皇室は良いシステムだと思いますし、全く反対の意思はありませんが、歴代の天皇をすべて尊敬して敬語を使えと言われても…、歴代の中には嫌いな奴、悪党もいます。
後白河…彼のために、どれだけ多くの人民が戦死したのか、餓死したのか。
そして彼は、政治をゲーム化して遊んでいたのではないかと思います。天狗、烏天狗…。
征夷大将軍
頼朝に征夷大将軍の辞令が出たのは1192年の3月です。
教科書ではこれをもって「鎌倉幕府開設」としてきましたが、最近は地頭制度のできた1186年と、両論併記になっているようです。
後白河が死んで朝廷は九条兼実関白がリーダでしたが、1192年の3月、頼朝を征夷大将軍に任命します。
坂上田村麻呂以来の役職ですね。
朝廷には古来から伝わってきた「三軍の将」という呼称がありました。
東海道、東山道を収める将軍が征夷大将軍
北陸道を収めるのが征狄大将軍
西国、中国、四国、九州を収めるのが征西大将軍
三つのうちのどれにしようか、九条以下公家たちは悩んだようです。
一番ふさわしいが、一番与えたくない呼称・・・それが征夷大将軍でした。
なぜ? 頼朝が希望したからです(笑)
曽我兄弟の仇討
先週から曽我十郎、五郎が登場してきました。
敵役の工藤佑経は出てきませんね。
むしろ岡崎など、政所の待遇に不満を持つ古参の御家人がクーデターの相談をしている場面が出てきました。
史実に近いと思います。
この時期の主流派は北条、比企、三浦、梶原、畠山などで非主流として政治にあずかる機会がなくなった古参の御家人は反主流的行動を始めます。
それに、問注所の裁判で敗訴した者たちが加わり、互いに多数派工作を始めていました。
曽我兄弟というのは有力御家人ではありません。
伊東祐親の孫ですから、どちらかといえば頼朝の敵役の側にあったのですが、伊豆出身の縁で北条時政を頼ります。
伊東祐親は時政の義父、義時の祖父であり義父、妻・八重さんの父です。
名の立つようにしてやりたい…温情が動きます。
が、兄弟の後ろにはアンチ頼朝の不平不満分子がついていました。
暗殺計画が進み、それに比企が乗ります。
北条勢力排泄運動でしょうか。
暗殺計画の舞台は富士の裾野…御殿場周辺だったと思います。
頼朝の嫡男、頼家が大鹿を射止めたといいます。
中学生年齢にしては大手柄です。
大喜びした頼朝は狩りを中止して宴会ムードになります。
鹿鍋は当然として三色餅、各種神事を催し、頼家が二代将軍としてふさわしい活躍をしたと祝います。
巻狩りというのは軍事演習でもありますから緊張していますが、一気にキャンプ・ファイアー的ムードが漂います。
曽我兄弟はこの時を狙っていました。
仇の工藤佑経は頼朝のお気に入りの一人です。
鼓の名手で静御前の舞でも伴奏をしていました。
表向きは土地争いの恨み、父の仇ですが、裏では古参御家人、不平不満分子の傀儡にされていました。
五郎は頼朝を討とうと宿舎に討ち入りますが、捕らえられます。
兄は、工藤は討ち取りましたが、多勢に無勢で討たれます。
実行犯がいて…教唆する奴がいます。
手を汚さない悪党…いつの世にも数多。