いざ鎌倉!! 第14回 豪腕?壊し屋?

文聞亭笑一

相変わらずのコメディータッチで北条一家のホームドラマが続きますが、世の中が平穏であったわけではありません。

とりわけ京都周辺では清盛が築き上げた勢力を維持しようとする平家と、清盛の圧迫から脱して勢力を回復しようとする後白河法皇と、それに連なる公家たちが政治駆け引きの世界で暗闘していました。

後白河は戦力も経済力も持ちません。

あるのは「天皇家」と言う一種の宗教的権威だけなのですが、それも正当な権威は息子の高倉上皇も、孫の安徳天皇も、平家に奪われています。

正規の朝廷機能は平家の言うなり、思うがまま、なのです。

しかし、そういう京都の実態を遠方の関東、奥羽、九州などの武士勢力は知りません。

新聞もテレビもありません。

都のことは商人たちがもたらす噂話でしか知り得ません。

後白河法皇は、正規には、法的には全く政治権力がないのですが、田舎侍の倫理観からすると・・・天皇より、その父の上皇が偉い、そして、そのまた父である祖父の法皇は、それ以上に偉い・・・といった感覚になります。

現代の我々は法治国家に生きていますが、当時の人々にとっては「法」などというものはなきに等しく、宗教的戒律や道義、道徳と言った概念が社会を支配していたようです。

源行家という男が暗躍します。

美濃源氏へ、甲斐源氏へ、鎌倉へ、木曽へ、自分の味方になってくれそうな血統を辿って味方を集めます。

なりふり構わず・・・主義主張、政権構想などは二の次に、多数派工作のみの奔走する男・・・ドン・小沢一郎と重なってきますねぇ。

源十郎行家

十郎の名乗りの通り、源為義の10男坊です。

長兄・義朝の子が頼朝以下の範頼、阿野全成、義経など…甥たちです。

次男・義賢の子が義仲です。

これも次兄の甥に当たります。

3男義広以下、

④頼賢、

⑤頼仲、

⑥為宗、

⑦為成、

⑧為朝、

⑨為仲・・・

と兄たちがいて、10番目の末っ子です。

兄たちの中では八郎為朝が有名ですね。

弓の名手と知られ、鎮西八郎とも言われた勇者でした。

八丈島に流されました。

十郎行家は幼いころから熊野・新宮に住みます。

それもあって新宮十郎とも呼ばれます。

以仁王の反乱の折に、源頼政に頼まれて、全国の源氏に「令旨」を届ける役を請け負います。

美濃、尾張、甲斐、鎌倉、木曽・・熊野の山伏姿で行脚します。

各地で源氏の蜂起を促すのですが、各地の源氏勢力の旗下には入ろうとしません。

自分の方が上位である・・・と云う姿勢が嫌われて、冷たくあしらわれます。

政治力や軍事能力も優秀とは言えないようです。

墨俣川の戦、矢作川の戦では連戦連敗、自らの兵力の殆どを失います。

頼朝の元に逃げ込んで相模国、松田に保護されます。

そのくせプライドだけは高く、所領を要求して拒否され、木曽の義仲の元へと去ります。

このあたりが・・・先週の放映にありましたね。

この後も、北陸道の上洛戦では大した手柄も立てず、義仲に保護された身分でありながら、上洛してからは平家を倒したのは自分の手柄のように振る舞い、義仲からも嫌われてしまいます。

義仲が朝廷に対して対応を誤ったのは、行家との争いが焦りを産んで強引な手法に走ってしまったためではないか…とも言われます。

行家は都の事情にも明るく、公家にも人脈がありますから、義仲より先手、先手に官位などを取得します。

それも義仲より上位の官位を手に入れますから、義仲は苛立ちます。

そうなると・・・強引な実力行使・・・プーチン現象になってきます。

義仲にとっては「叔父さんだから・・・」と行家を大事にしたのが裏目に出ましたね。

とんだ食わせ者と言うか、自己顕示欲の強い「俺が・・・」「俺が・・・」の男だったようです。

その意味で頼朝の方が人を見る目があったのでしょう。

さらに行家は、後に、義経の無認可任官騒動にも一役買ったようです。

それやこれや・・・頼朝は「鎌倉幕府の意向に沿わぬ反逆者」と行家を捕らえて、処刑しています。

どこの組織にもこの手の厄介者が現れますねぇ。

隠居社会にすら現役時代の肩書をひけらかしたり、先輩面をしたり、実力誇示して顰蹙を買う、嫌われ者がいます。

♪ 昔の名前で 出ています

はカラオケの世界だけにしておいた方が良さそうです。

義高を人質に

頼朝と義仲の争いは源氏の本家争いのようなものですね。

後の世に、家康が法制化した「長子相続」の方式であれば、為芳の長男・義朝が棟梁ですし、そうなっていました。

義朝が平治の乱で討たれたのち、義朝の長子は頼朝です。

しかし、義朝の弟・義賢の子、義仲は叔父二人(義広、行家)を保護して多数決?のような感覚で源氏の代表を自任します。

こういう政治の世界、多数派工作に頼朝が苛立ち、「義仲征伐」の軍を挙げようとするのですが、政治音痴の関東軍団の協力は得られませんでした。

頼朝から見て諸悪の根源は、陰謀逞しく裏工作に走る叔父の行家です。

「行家を差し出せ」と要求するのですが・・・意外にも、義仲の回答は「嫡男・義高を人質にする」というものでした。

現代人の価値観と800年前の価値観、一夫多妻の世の常識では「子どもより義理」が優先するのかもしれません。

頼朝の叔父たちは10人もいますし、頼朝の兄弟も9人もいます。

ジェンダー叔母さんには叱られますが「女は産む機械」と側室を多数抱えるのが為政者の習いでした。

その意味では義仲も頼朝以上に冷徹な判断をしています。

人質になる義高は12歳、中学一年生ですねぇ。

海野幸氏、望月重隆の二人が従います。

海野も望月も信州の名家で、真田十勇士にもその名が残っています。

人質の名目は「大姫の婿」でした。

大人たちの政治駆け引きとは別に、思春期の義高と大姫は初恋ムードに没入していきます。

この辺りも「鎌倉殿ホームドラマ」の格好のネタでしょうね。

義仲が始める北陸道からの上洛戦、とりわけ平家を完膚なきまでに破った倶利伽羅峠の戦などは、本気でやれば…撮影に膨大な金がかかります。

さらりと流すでしょうね。