いざ鎌倉 第22回 鎌倉開府(その1)

文聞亭笑一

配信が遅くなりました。

それと今回の鎌倉開府は少し長くなりますので、その1、その2の2回にわけて配信します。

先週の展開は頼朝の上洛と、その後の後白河の死、将軍宣下と続き、次回予告のように蘇我兄弟が登場してきました。

頼朝の上洛

頼朝の最初の上洛は1190年10月3日です。

「御家人千余騎を引き連れ・・・」とありますから相当豪華な行軍であっただろうと思います。

京の朝廷への示威行動でもあります。

現代でも、北朝鮮や中国が軍事パレードをやりますが、まぁ、あんな感じなのでしょう。

この途中で、頼朝は父・義朝の仇討ちをやります。

義朝は平治の乱に敗れて尾張の熱田神宮を頼って逃げてきます。

途中の米原付近で三男の頼朝が脱落し平家に捕まります。

美濃で長男と別れ、次男は死にます。

なんとか尾張にまでは逃れたのですが、元部下の長田忠致に裏切られ、風呂場でだまし討ちに遭って死にました。

その後、長田忠致は清盛から恩賞として壱岐守をもらうのですが「尾張守か美濃守が欲しい」と訴えて拒否され、頼朝が挙兵すると源氏に寝返って鎌倉の御家人に名を連ねていました。

頼朝の上洛に当たっては頼朝に阿(おもね)り「今度こそ尾張守か、美濃守をもらおう」と画策していました。

それに対して頼朝が下した裁定は「土(つち)磔(はりつけ)」という残酷な死刑判決です。

罪人を戸板に貼り付けて地面に晒し、通行人が罪人を切り刻んでいくというやり方で、これに類する刑は、後の世で織田信長が自分を狙撃した犯人を「のこぎり引き」という刑にしましたね。

時間をかけて殺すというのですから驚くほどの残忍さです。

そしてその脇には落首が立てられていたと言います。

嫌えども 命のほどは壱岐守(生きる) 美濃・尾張(身の終わり)をぞ 今は賜る

=壱岐の守が嫌でもおとなしくしていれば良い物を、欲をかくから身の終わりになるのだ=

この話は・・・後世の作文でしょうが、頼朝の冷酷さ、執拗さを示す逸話とされています。

それもあって、頼朝の死には暗殺説がつきまといます。

上洛サミット

京での頼朝は徹底して頂上会談を挑みます。

公家たちが間に入るのを避けて、後白河法皇とのトップ会談を長時間、三回にわたって行います。

公家たちが得意とする手続き重視の手練手管を封じるためだったと思われます。

現在でも官庁は、中央も地方も、官僚が手続きを複雑化して民間の要求を撥ねつけます。

公家文化の伝統ですね。

官僚ばかりではありません。

企業でも「本社」と名のつくところは、多分に官僚的体質を持ちます。

頼朝の狙いは、義経捕縛のための臨時的権限委譲であった「守護地頭の任命権」を恒久化することと、武士による土地の私有化を認めさせることにありました。

奈良朝以来、朝廷や藤原氏(公家)、寺社の資金源となっていたのは公地公民をベースにした荘園制度です。

つまり、国土はすべて朝廷の物・・・と言う考え方です。

これを武士による「一所懸命」私有化に切り替えます。

政治的にも経済的にも大革命ですよね。

将軍職がどうのこうのというより、この革命を朝廷が飲むかどうか・・・その一点に絞られます。

長時間の密議が3回・・・さもありなんです。

位打ち

朝廷が新興勢力を手懐(てなず)ける道具として、奈良朝以来使ってきたのが位打ち・・・官位、官職を餌にして朝廷の中に取り込んでしまうという政治手法です。

この手に乗ってしまったのが清盛の平家であり、後の世では室町幕府、さらには豊臣政権です。

「大臣」「納言」などという役職をもらうと、朝議に出席しなくてはならなくなり、京都から離れられなくなります。

京の持つ…摩訶不思議な魅力…に取り込まれ毒気を抜かれてしまう、気づかぬうちに、代を重ねるごとに公家化し、武家としては軟弱化してしまいます。

それを嫌って、拠点を関東に置いたのが頼朝の鎌倉幕府であり、家康の江戸幕府です。

さらに、信長も関東まで離れませんでしたが安土に都を移す政策を進めていました。

頼朝、信長、家康では信長が最も徹底していて、天皇・御所まで安土に用意していましたね。

もちろん、公家などは呼ぶつもりがありません。

それはともかく、10月に上洛して権大納言 兼 右近衛大将に任じられていた頼朝は、12月3日になると、さっさと辞任してしまいます。

そして鎌倉へと帰っていきます。

在京したのは40日、法皇との会見は8回、サミット頂上密談3回だといいます。

任官した官職を辞職して帰ってしまうという行為は、この時の頼朝と、足利将軍を上洛させたときの信長・・・二人しかいません。

家康はもらいっぱなしで辞任はしていませんね。

鎌倉政権充実

テレビでは説明しませんでしたが、京都から帰った頼朝は鎌倉殿・つまり鎌倉政権の機構を刷新します。

三権分立というか、行政の中核は公文所を「政所」と改め、司法・裁判を問注所とし、軍事を侍所とします。

現代の三権とは違いますがこの三つが政府の中核です。戦がなくなってくると…侍所は暇になり、問注所が忙しくなります。

何しろ「一所懸命」な武士たちですから土地の境界をめぐる裁判が頻発します。

当然、殺し合いや暴力事件が後を絶ちません。

それやこれや…曽我兄弟の仇討にかこつけた反政府運動になっていきます。

さらに、鎌倉大火と呼ばれる大火事があって、市街のほとんど、更には八幡宮まで焼け落ちてしまいますが、これが…どうやら放火らしいのです。

しかも、予告した者までいて、それが咎めを受けていないところを見ると計画火災の匂いがします。

狭くなった旧市街を焼いてしまい、都市計画をやり直す…そういう意図の見える大火がありました。

その後、鎌倉市街は現代に近い形に再整備されます。

八幡宮も大規模に再建されます。