いざ鎌倉!! 第15回 幼子の恋
文聞亭笑一
今年の大河ドラマ、三谷脚本は「筋書きのないドラマ」なのかと思って観てきましたが、ここまでのところでネタ本らしきものは永井路子の「北条政子」のようですね。
本箱をひっくり返して源平物の小説をパラパラめくってみたら永井本が一番ホームドラマ風でした。
ここまでのストーリ展開は永井本に準拠していますね。
男の世界はザザッと流し、家族や男女の情を中心に物語が展開していきます。
先週も源平の軍事力を逆転させた歴史的な一戦、倶利伽羅峠の戦などは古絵巻の図だけで済ませてしまいました。
火牛の計
・・・もっとも、倶利伽羅峠の戦を映像で再現しようとしたら大変です。
勝負を決めたのは「火牛の計」と言われる孫子以来の奇策です。
牛の角に松明を結び、その火におびえて暴れまわる牛たちを敵陣に向けて突進させる・・・こういう技術は牧での馬飼い、牛飼いの経験者にしかできません。
馬や牛を扱ったことのない人は「牛はおとなしい」などと誤解していますが、牛が暴れだしたら手が付けられません。
とりわけ雄牛、去勢していない雄牛が暴れだしたら・・・制御不能です。
脱線しますが、日本に車輪、車という技術が入ってきたのは平安初期です。
車輪、馬車と言う知識がもたらされたのはヒミコの時代(3世紀)でしたが、魏からは馬車の模型をもらっただけで、車輪の製造技術までは入ってきませんでした。
平安期には「牛車」と言う形で車の筐体、そして動力としての牛、さらには鼻輪、鞍などの牛を御する技術が入ってきたのですが、残念なことに雄牛を去勢する技術を輸入しそこないました。
その結果、平安京では春先になると交通事故が頻発していたようです。
御者がアクセルも踏まないのに、なぜかエンジンが全開になって暴走を始める・・・ブレーキとアクセルの踏み間違いのような事故が起きます。
牛にも恋の季節があります。
気に入った牝牛を見つけたら、御者が何を言おうと猛然と追いかけるのは当然ですよね(笑)
源平の時代に日本全国でどれほどの牛が飼われていたのか? 資料は目にしません。
が、義仲は倶利伽羅峠で100頭近い牛を使ったと言います。
万余の平家軍を蹴散らしたのですから10頭や20頭ではないでしょう。
それだけの牛が倶利伽羅峠の手前、越中にいたということは、農耕用や運送用にかなりの繁殖がなされていたのでしょう。
多分、兵糧の輸送用に狩り出されていたのが牛を動力にした『運送』で、その牛たちを武器として転用したものと思われます。
義仲軍を「木曽の山猿」と笑いものにしますが、「孫子」などを読んでいたということで教養がなかったわけではありません。
社交儀礼、礼儀作法、その種の形式主義を「軟弱」と卑下してきた野生の文化が、京の公家文化と対立してしまったのです。
結果論ですが、義仲が京に入るのを遅らせて近江あたりで態勢を整えていたら・・・後白河は困ったでしょうね。
準備もせずに上洛し、法皇の魔の手にかかりました。
ともかく、今回の物語は北条家に関係のない部分はザザッと通過してしまいます。
戦記物で有名な義仲VS義経の宇治川の戦などはパス、今井兼平、巴御前が活躍する粟田口の戦いもパス・・・義仲が死んだ…で終わりです。
義仲が歴史的に果たした役割などは全く無視していますね。
義仲が後白河から嫌われたのは源氏蜂起のきっかけとなった以仁王の王子を次期天皇に推薦したことです。
「武士の分際で天皇の後継ぎに意見をするとは僭越である」と猛反発を受けるのですが、実はこれが・・・武士が国体に意見する最初のケースでした。
その後に頼朝がやります。更にその後、北条義時は時の法皇、上皇、天皇を島流しにしてしまいます。
いわば民主化、革命ですよね。革命の先鞭をつけたのが義仲でした。
義高逃亡
義仲の長男・義高は、頼朝の長女・大姫の婿・・・婚約者としての立場で鎌倉に人質になっていました。
大人たちは「形式だけ・・・」と婚約などは便宜上と考えていますが、10歳の大姫はままごと遊びの延長上で、本物の夫婦と思いこんでいました・・・と云うのが永井本の解釈で、その後に大姫が精神に異常をきたし、鬱状態になってしまい、頼朝の政略が上手く行かない原因になったと書きます。
人質は、敵となった段階で処刑されます。それをパスしても・・・父・義仲が討ち死にした段階で処刑されます。
生かしておけば、仇討ちを狙う勢力が祀りあげるからで、現に頼朝がその典型で、仇討ち代わりの反平家を率いています。義高が生き残る望みはありません。
逃げる・・・しかありませんが、鎌倉は攻めるのも難しいですが逃げるにも難しい。
逃げ道が数カ所しかなく、そして、そこには厳重な関所が構えてあります。
逃げる段取りをしたのは政子。
寺社への参拝の代参の人数に女装した義高を加え、鎌倉を抜け出させ、後は本人の能力次第…信濃へと向かわせます。
鎌倉街道上津道・・・戸塚に向かい、相模原、八王子に向かうべく、義高は馬を駆ったと思います。
が、それは鎌倉武士たちの読み筋でもありました。先回りされ、討ち取られます。
義経任官
さて、義仲を討って京に入った義経、彼にも朝廷、公家たちの魔の手が伸びます。
「褒め殺し」という言葉が一時期は流行ましたが、まさにそれ、鎌倉源氏の先遣隊の隊長に過ぎない義経を旭将軍と同格において、旭将軍を破った男と称えます。
そういう、名誉欲が強い、エエカッコシイな男だというのは叔父の行家が後白河に入れ知恵しています。
「頼朝の許可なく任官するな」と言うのは鎌倉方の大方針だったのですが、義経がそれを破ります。
それを真似て、何人もが後に続きます。
「位討ち」朝廷が持つ唯一の武器・・・これを使わせないというのが頼朝・大江広元の戦略だったのですが、戦術、戦法が得意な義経は、戦略が分かっていません。