いざ鎌倉 第21回 八虐の罪
文聞亭笑一
鎌倉軍による奥州平泉攻撃は、鎌倉と奥州藤原の関係で言えば「大義なき戦い」です。
藤原泰衡はお尋ね者の義経を討ち取り、鎌倉に協力したのですから何も悪いことをしていません。
問題は「国家構想の違い」「国体に関する理念の差」でしょうか。
その意味ではこの時期、三つの国家構想が渦巻いていました。
後白河法皇を中心に、公家たちが思い描く「平安復帰」
頼朝が作ろうとする「武家による政治・軍事政権」
奥州藤原の雄・秀衡が思い描いた「仏国土・三極共和政治」
仏国土・奥州
「三極共和政治」などと名付けてみましたが、要するに日本を三つの地域に分けて、それぞれに独立した政権が存在することを認め合いながら、互いに則を守って共存共栄していこう・・・という発想です。
共和・・・というより合衆国的なのかもしれません。
日本国の元首として京の天皇・朝廷を尊重する。
武家の棟梁としての鎌倉も尊重する。
が、仏国土・奥州は自主独立政権を打ち立て、独自の政治を行う・・・いわば治外法権です。
この構想の下に、いわゆる藤原三代の奥州仏国土建設が行われてきました。
初代・清衡による中尊寺の建設
二代・基衡による毛越寺の建設
三代・秀衡による無量光院の建設
いずれも奥州で産出した「金」を惜しげもなく使った豪華絢爛たる建築美術遺産で、この合戦で焼かれてしまったのがなんとも惜しい事でした。
後の世になりますが、マルコポーロの「東方見聞録」に描かれた「黄金の国ジパング」は、この平泉がモデルだったと言われています。
「日本」という国家のあり方を巡って三極がしのぎを削っています。
奥州藤原の意見が通れば、いずれ日本は三つの国に分かれます。
かつて「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」という交通標語が流行りましたが、分裂国家構想が恒久化するのは難しいですね。
プーチンがウクライナに対して仕掛けているのが同じ発想で、ウクライナ国内で傀儡的独立国家を作り、意のままに操ろうという魂胆でしょうが、百年昔の発想ではないでしょうか。
満州国建設に走った日本軍と同じです。
頼朝は「平安復帰」も「仏国土」も否定します。
「武士の世」の建設に向けて、まずは仏国土を潰しにかかります。
藤原一族とその関係者の掃討に奥州侵略を続けます。
事をなすは勢いにあり
鎌倉軍は28万とも言われますが、奥州軍も15万騎といわれますし、地の利は圧倒的に藤原方有利です。
まずは白河の関、ここでの攻防は互角でした。
鎌倉方の大将は畠山重忠、奥州軍の大将は藤原国衡、泰衡の兄です。
城攻めには敵の三倍の兵力がいる・・・と言われます。
当時に「城」という概念はありませんが、国衡は「白河の陣」を守り、鎌倉勢を寄せ付けません。
互いに消耗戦ですが、勝負を決したのは勢いの差ではなかったかと思います。
つまり、「攻め」と「守り」の心理差でしょう。
攻める鎌倉勢は、畠山の要請に応じて次々と援軍を繰り出します。
守る国衡軍は、後方(福島)の泰衡に援軍を要請しますが、援軍の代わりに引き上げ指令です。
後の世で勝海舟が「事をなすは人にあり 人を動かすは勢いにあり 勢いを作るは また人にあり」という名言を残しますが、この時に「攻めの勢い」を作ったのは頼朝、「守りの気持ちを誘ってしまった」のが泰衡でしょうね。
戦闘の現場は郡山、白河の関ですが、勝負を決めた時のリーダの位置は宇都宮と福島あたりでした。
人間集団は守りに入ると脆くなります。
逆に攻めに入ると・・・何をしでかすかわかりません。
「窮鼠猫を噛む」「背水の陣」の喩えの通りです。
奥州合戦は、白河の戦で国衡が退却することで勝負がつきました。
勢いに乗った鎌倉軍と、守りに入った奥州軍では戦になりません。
戦うことより逃げることが優先されますし、日本式戦争ルールでは「大将が討たれたら終わり」なのです。
負けないために・・・大将・泰衡は逃げに逃げて、出羽・・・秋田方面に落ち延びます。
八虐の罪
15万騎を誇った奥州藤原軍も、負けが見えてくると散り散りバラバラです。
伝を頼って鎌倉に降伏し、あわよくば本領安堵など権利確保のことを考えます。
出羽の河田次郎もその一人でした。
白河での激戦に、奥州軍が消極姿勢を見せるのを見て「平泉へ退却」を拡大解釈して出羽・秋田に帰ってしまいました。
「鎌倉方とは戦っていない、恭順した」という言い訳が立ちます。
ところが、平泉も守れないとなった泰衡が河田を頼って落ち延びてきました。
鎌倉方に降参して生き延びよう・・・と決めていた河田は泰衡の首を取り、頼朝に差し出します。
当時の常識からすれば「敵将の首をとる」のは「手柄・勲一等」です。
戦国時代なら一国一城がもらえるほどの大手柄です。
が、頼朝の裁可は「その者の首、即刻はねよ」でした。
「かの者のなしたる事、断じてこの我にとって功ではない。
わが軍の力を以てすれば、かような者の手を借りずとも、泰衡に首を取るのはたやすいことであった。
父祖代々の恩を忘れ、主人を手に掛けて己の功にしようとは八虐の罪に当たる」
この文章は小説からの引用ですが、武士の世・・・忠の思想・・・の原点になります。
鎌倉幕府、室町幕府では浸透しませんでしたが、頼朝を尊崇する徳川家康によって、「忠義とは何にも勝る理念である」と指導、教育がなされました。
800年前の倫理規範ですが、私なども多分にその影響を受けています。
「親に孝・君に忠」は我々の親父世代、明治・大正文化ですが「妻子に愛・会社に忠」は我々戦中・戦後の昭和世代の価値観です。
頼朝が言ったという「八虐の罪」・・・初耳です。
知らなかったので調べてみました。
まず謀反(むへん)・・・天皇を殺害し国家の転覆を企てること
②謀大逆・・・皇居や御陵を破壊すること
③謀叛(むほん)・・・国家に反逆すること
④悪逆・・・主君を殺害すること
⑤不道・・・大量殺人や呪い殺しなど
⑥大不敬・・・神社を破壊、汚すこと
⑦不孝・・・親をないがしろにすること
⑧不義・・・人として守るべき道に外れること
謀反~⑥までは考えたこともありませんが、⑦や⑧は悔いの残ることもあります。
でも・・・「平成組よりはマシだろう」と思ったりしますが・・・自己弁護でしょうね(笑)